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新宿区(4)

   
 幕府目付多門伝八郎重共一族の菩提寺です。
 過去帳はあるが、墓碑はないそうです。
 安部丹波守信峯は浅野長矩の従弟です。
戒行寺 安部丹波守信峯下屋敷跡
新宿区須賀町 新宿区大京町3−6−8

   
 犬小屋があった辺りです。
 犬屋敷の碑があります。
 中山安兵衛が高田馬場に駆けつける時に、ここに立ち寄って、枡酒を飲んだといわれます。その升が残っているといいます。
 現在、その酒屋(小倉屋)は、早稲田通りと大隈講堂へ通ずる道との交差点に面し、穴八幡神社の対面にある。コンビニになっている。
抜弁天(弁財天厳島神社) 小倉屋
新宿区余丁町8-5 新宿区戸塚1−62

 宇都宮藩奥平家には重臣12家(7族5老)がありました。
 1668(寛文8)年3月2日、下野の興禅寺で、宇都宮前藩主・奥平忠昌の法要がおこなわれました。この時、文治派の奥平内蔵允(黒屋家)がたび重なる侮辱に耐えかねて、武断派の奥平隼人(中金家)に刃傷に及びました。ところが、文治派・内蔵允は逆の大けがをしました。その場を兵藤玄蕃が鎮めたが、その夜、内蔵允は切腹しました。藩庁へは、刀傷による「破傷風」と報告しました。
 兵藤玄蕃は、藩主・奥平昌能に両成敗を進言しました。一方、閉門を命じられた隼人は、切腹を覚悟していましたが、父の奥平半斎がこれを受け入れませんでした。
 9月2日、宇都宮藩主・奥平昌能は、奥平隼人には改易、奥平内蔵允の嫡子・源八(12歳)と内蔵允の従弟・伝蔵正長には家禄没収の上、追放を申し渡しました。隼人ら親子は、江戸の旗本・大久保助右衛門の屋敷に身を寄せました。
 喧嘩両成敗ならば、奥平隼人は切腹である。この処分に不満の源八らは仇討を決意しました。
 1669(寛文)年7月3日、奥平源八らは、隼人の実弟・奥平主馬允を出羽上之山で待ち伏せして、討ち取りました。隼人は、市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭・戸田七之助の屋敷に隠れていました。
 1672(寛文12)年2月3日未明、源八ら42名は、火事装束に身を包み、戸田七之助の屋敷へ討ち入り、10数人を斬り、隼人の父・半斎を討ち果たしました。源八らが引き上げる途中、牛込御門前まで来た時、隼人が追ってきました。源八は隼人を討ち取りました。
 源八らは、幕府に自首しました。大老・井伊直澄は、源八の態度を賞賛し、死罪を減じて伊豆大島に流しました。
 1678(延宝6)年、奥平源八は、恩赦で流罪を解かれ、彦根藩に仕官しました。
 これを浄瑠璃坂の仇討といい、伊賀越の仇討ち・赤穂浪士の討ち入りに並ぶ江戸三大仇討ちとして評判となりました。
浄瑠璃坂
新宿区市谷砂土原町1から砂土原町2
テキストのみは、写真を入手しておりません。ご協力をお願いします。
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連絡はまでお願いします。

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