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孫に伝える小説忠臣蔵

第一章
【009回】赤穂浅野家の誕生(4)━赤穂城と山鹿素行

蘇った山鹿素行の銅像
素行の銅像の経緯を考える
赤穂の人と山鹿素行
赤穂城内の山鹿素行銅像(2010年11月08日筆者撮影)
 湖南土井瑠「この銅像は知っているかい?」
 木村葉月「新聞で見た山鹿素行の銅像ですね」
 土井瑠「そうだね。この銅像は、今から100年ほど前の大正14(1925)年に建立されんだ。この銅像を彫ったのは白井雨山(うざん)という人なんだね」
 湖南あこな「白井雨山という人は、どんな人なんですか?」
 土井瑠「なかなか鋭い質問だね。白井雨山は東京美術学校(今の東京芸芸術大学)の教授で、同校に彫塑(ちょうそ)科を新設した人として有名なんだよ」
 3人「すごい人なんですね」
 あこな「それで、大正14年というのは、何か意味があるんですかは」
 土井瑠「その年は、山鹿素行の死後240年にあたるんだ。しかし、昭和19(1944)年、戦争で軍に強制的に提出させられていたんだ」
 大野蛍子「この銅像にも色々な運命があったんですね」 
 土井瑠「大野九郎兵衛と重ねているのかな」
 蛍子「‥‥」
 葉月「それでどうなったんですか?」
 土井瑠「今から50年ほど前の昭和33(1958)年、ちょうど義士祭の日に再建されたんだ」
 葉月「義士祭の日とは12月14日ですか?」
 土井瑠「そうだね。その時も、この銅像は、赤穂城の本丸の真北にある大石頼母助の屋敷内にあったんだ。ここは、山鹿素行が処分されて赤穂に流された時の家があった場所だよ。難しい言葉では謫居(たっきょ)跡というんだ」
 あこな「それがどうして、今の位置(頼母助の屋敷外の東)に移されたんですか」
 土井瑠「今から10年ほど前野平成10(1998)年に、赤穂城跡公園整備のために今の位置に移されたんだよ」
 土井瑠「50年も経つと、銅の弱点で、頭部や顔面などに緑青(ろくしょう)が目立ちだしたんだね」
 あこな「それで、泣いたような顔になっていたんですね」
 土井瑠「そうそう。そこで、今年(2010年9月)、緑青を除去する作業が行われ、写真に見るような姿に蘇ったんだ」

赤穂城・二ノ丸門の設計は山鹿素行
山鹿素行は甲州流の軍学者
赤穂城二ノ丸門(赤穂歴史博物館)
赤穂城二ノ丸門(直進して左折して本丸へ)
↑クリック(拡大写真にリンク)
1701(元禄14年)の赤穂城絵図(大石神社蔵)
 湖南土井瑠「上の2枚の写真は、山鹿素行が設計した二ノ丸門なんだよ」
 大野蛍子「実際に山鹿素行は赤穂に来ていたんですね」
 土井瑠「そうなんだ。赤穂浅野家の初代・浅野長直が赤穂に来たのは何年だったかな」
 木村葉月「1645年です」
 土井瑠「そうだったね。年号にいうと正保2年だったね。山鹿素行が浅野長直に招かれて赤穂に来て二ノ丸門の縄張り、つまり設計をしたのが、承応2(1653)年なんだよ」
 湖南あこな「この2枚の写真は、何を意味しているんですか?」
 土井瑠「上の写真は、二の丸門を入るには三ノ丸から直進して、左折して、さらに右折して、本丸に進むことを模型で示しているんだよ」
 葉月「じゃ、下の絵図面は何ですか」
 土井瑠「実は、当時、お城の設計をする専門家集団に武田信玄が育てた甲州流軍学者がいたんだね。山鹿素行も甲州流軍学を学んだ学者だったんだ」
 3人「ふーん」
 土井瑠「甲州流の特徴は、門を直進して右折するというのが常識なんだよ」
 葉月「あっ、それで、赤い色の線の部分は4カ所とも真っすぐ行って、右に折れていますね」
 土井瑠「よく気が付いたね。青い線だけは、直進して左折しているね。地元のガイドさんも気が付かなかったなんだよ。これを高校生が発見したんだから、若い人の完成はすごいね」
 3人「頑張ります!!」

山鹿素行は『聖教要録』で幕府が採用する朱子学を批判
自分の教え(聖学)こそ朱子学に代って有用な学問であると主張
幕府の実力者・保科正之の激怒を買い、赤穂に追放
追放の原因となった『聖教要録』 赤穂追放中の著作『謫居童問』
 蛍子「父は、幕府を批判したので、山鹿素行は赤穂に流されたと聞いたんですが?」
 土井瑠「そうだね」
 あこな「どうして幕府を批判したんですか?」
 土井瑠「江戸幕府が採用している学問は上下の秩序を重視する朱子学なんだ」
 葉月「中国の孔子が唱え、朱熹が大成したんでしょう」
 土井瑠「さすが、歴史がすきなだけあって、よく知っているね。所が、山鹿素行は『聖教要録』という本を書いて、幕府の採用している朱子学は、書物の上の知識をふりまわすのみで、日用事物の上に役立っていないと批判し、さらに、自分の教え(聖学)こそ朱子学に代って有用な学問であると主張したんだ」
 あこな「そう指摘されたら、だれでもおこるわね」
 蛍子「ほんと。それで幕府はどうしたんですか」
 土井瑠「幕府の保科正之は、大目付で素行の軍学の師である北条氏長と相談して、赤穂に追放することにしたんだ」
 葉月「保科正之っていうと、2代将軍・徳川秀忠の子どもですね」
 土井瑠「そうだね。秀忠の四男で、3代将軍・徳川家光の異母弟で、4代将軍・徳川家綱の補佐役という実力者なんだね」
 あこな「そんな人と喧嘩したら負けるわよね」

赤穂義士と山鹿素行全国フォーラムの筆者の発言
山鹿素行は自分の言動に命をかける
今の若者が素行を理解→素行も喜んでいる
赤穂義士と山鹿素行全国フォーラム(中央が筆者)
日時:2009年9月27日13時〜16時/場所:赤穂ハーモニーホール
 蛍子「私も父に連れてもらって、山鹿素行のフォーラムに行きました。あこなちゃんのおじいさんも、山鹿素行の話をされたんですね。外の方も熱心だったんですが、中学生の私にもよく分かったんで、とても印象に残っています」
 あこな「おじいちゃん、どんな話をしたん」
 葉月「是非、聞きたい」
 土井瑠「蛍子さんは、どこが印象に残っているのかな」
 蛍子「山鹿素行が赤穂に流されるときに言った言葉です」
 土井瑠「なるほど。山鹿素行の先生でもある大目付・北条氏長に呼び出された時の話だね」
 蛍子「はい」
 土井瑠「北条氏長は、”今から赤穂に追放する。急な事ではあるので、家族に手紙を出すか、伝えることがあれば、申し出よ”と言ったんだね。それに対して、山鹿素行は、”私は日頃から自分の言動には命をかけていますから、その必要はない”ときっぱりと言い、そのまま赤穂に来たんだよ」
 葉月「言動に命をかけるということが、大石内蔵助ら赤穂の人に影響を与え、吉良邸討入りにつながるんですね」
 あこな「私もすごく反省しました。一度決めたことでも、簡単に変更してしまいます。言葉の重さを知りました」
 蛍子「ほんとう。携帯電話は便利なので、深く考えず、約束をします。都合がわるくなれば、簡単に約束を破っています。これが当然のようになっています」
 土井瑠「今の若い人が言葉の重さを理解しただけでも、山鹿素行は赤穂に来たことを喜んでいるだろうね」

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