(03)感状山城と落城悲話
 感状山城(かんじょうさんじょう)は、瓜生城(うりゅうじょう)とも呼ばれ、鎌倉時代(1192〜1333年)に、瓜生左衛門尉(うりゅうさえもんのじょう)が築いたと伝えられています。
 その後、播磨国守護(しゅご)である赤松氏の本城白旗(しらはた)山城の支城として、@赤松則村(のりむら)の3男であるA則祐(のりすけ)が整備したと言われています。
 建武3(1336)年、敗走する足利尊氏(あしかがたかうじ)を追って、新田義貞(にったよしさだ)は播磨に入りました。
 尊氏に味方する父の則村に呼応した則祐は、50日間、瓜生城にたてこもり、新田義貞の進軍を食い止めました。
 その間に体制を立て直して、義貞を破り、やがて将軍となった尊氏は、その戦功を賞して、則祐に感状(かんじょう)を与えました。そのことから、瓜生城は感状山城と呼ばれるようになったと言われています。

 永禄11(1568)年、織田信長は、足利義昭(よしあき)を奉じて京都に入りました。
 天正5年(1577)年、城山城(たつの市)主のD赤松広秀(ひろひで)は、豊臣秀吉に屈服しました。 
 天正8(1580)年、三木城主のG別所長治(べっしょながはる)は、豊臣秀吉に屈服しました。 
 この頃に、感状山城も秀吉により落城したと思われます。

(1)感状山城が落城した日、城には何人かの姫がいました。
 押し寄せる大軍に逃げ迷った姫の1人は、人手にかかって恥をさらすよりはと、日頃、可愛がっていた金色の羽を持つ鶏を抱いて、城内にあった井戸に身を投じました。
 それ以来、毎年、元旦がくると、その井戸の中から鶏の鳴く声がきこえるといいます。

(2)もう1人の姫は、城を逃れて、城下の藤堂(とうどう)村にたどりつきました。藤堂村の人々は、姫を大事にかくまい、その後も大切にもてなしました。姫は死ぬ直前に、「お世話になったお礼に、この村では、美人ばかりが生まれるようにお祈りします」と言ったそうです。
 それ以来、藤堂村では、代々、美人が生れるといいます。

(3)感状山城には、非常に備えて、ぬけ穴を作っていました。それは、森の光専寺(こうせんじ)の北山手から流れる水を通す大溝(みぞ)が、寺屋敷の地底を抜け、鐘楼(しょうろう)の横手を通って、南側の溝と合流するというものでした。
 感状山城が落城した日、ぬけ穴をたどって逃れようとした1人の武士がいました。しかし、思うようにぬけ出られず、死んでしまったのです。
 その後、武士の亡霊(ぼうれい)がこの溝に出て、毎夜、通行人に墨つけをするというのです。

相生市矢野町瓜生・森
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感状山城の本丸跡
 参考資料1:この伝説の背景となった頃の年表です。
 天文8(1539)年4月、E別所就治(べっしょなりはる)は、B赤松政村(まさむら)を三木城に迎え入れました。
 永禄11(1568)年9月、織田信長は、足利義昭を奉じて入京しました。
 天正5(1577)年5月頃、置塩(おきしお)城主のC赤松則房(のりふさ)、城山城(たつの市)主の赤松広秀(ひろひで)は、豊臣秀吉に降伏しました。
 天正5(1577)年10月、F別所吉親(よしちか。長治の叔父)は、豊臣秀吉と会談し、対立しました。 
 天正6(1578)年3月、三木城主の別所長治(ながはる)は、播磨で唯一、毛利方に寝返りました。
 天正8(1580)年1月、豊臣秀吉の兵糧攻めに耐えた別所長治は、将士の助命を条件に自害しました。
 天正8(1580)年7月、豊臣秀吉は、鳥取城を包囲しました。
 参考資料2:この伝説の背景となった赤松氏の系図です。系図@〜Gは、文章@Gに対応しています。
茂則
@
則村
(円心)

範資
貞則
光範 …… 政資 義村
(摂津赤松氏)

A
則祐
義則 満祐 (惣領家)



持則 時勝


義村
B
政村
(晴政)
義祐 C
則房
(置塩城)

村秀 D
広秀
(たつのの城山城)
敦光 敦則 …… …… 則治 則定 E
就治

安治 G
長治
(三木城)
F
吉親
 参考資料3:赤松則村(1277〜1350) 。赤穂郡赤松村の豪族です。六波羅攻略など元弘の乱で活躍後,建武政権に背いて足利尊氏に従い、その功により播磨守護に任命され、幕府の要職の1つである四職にも抜擢されました。禅宗に深く帰依し、法名を円心と名乗り、大徳寺の創建にも関与しました。
 参考資料4:豊臣秀吉(1537〜1598)。尾張中村の百姓の子として生まれました。織田信長に仕え、播磨を統一しました。信長死後、全国を統一して、関白・太政大臣にまで出世しました。
 参考資料5:別所長治(?〜1580)。三木城主です。置塩城主の赤松則房、龍野の城山城主の赤松広秀らとは同じ赤松一族です(赤松氏系図を参照)。感状山城主は赤松則房(置塩城主)だったという説もあります。
 参考資料6:伝説の(1)から(3)は西播史談会会誌『播磨』によっています。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻