(04)瓜生(うりゅう)の羅漢(らかん)石仏
 欽明(きんめい)天皇の時代(629〜571年)に、朝鮮の百済(くだら)より戒律(かいりつ)を伝えるために、恵弁(えべん)と恵聰(えそう)という2人の僧が日本にやって来ました。
 大連(おおむらじ)の物部(もののべ)守屋(もりや)の父である尾興(おこし)は、播磨国に流しました。そこで、2人は、矢野の奥に庵(いおり)を結んで住むようになりました。
 3年後、2人は許されて、都に帰りました。
 しかし、物部尾輿の子である守屋は、それを認めず、大和国に流しました。
 その後、還俗(げんぞく)させて、恵弁を右次郎、恵聰を左次郎と名づけさせました。

 今度は、播磨国の安田の野間にある牢に閉じ寵められた2人は、牢番が与えた少しの栗も食べず、ひたすらお経を唱えていました。
 牢番は、このことを物部守屋に報告しました。守屋は「これは私の呪っているのだ」と言って、より一層監視を厳しくしました。
 2人は、「それならばこれからは、お経も唱えないし、物も言わない」と言って、無言を貫きました。それで「右次、左次とは物を言わない」という諺が生まれました。

 瓜生にある羅漢の石仏は、欽明天皇の時に、矢野に流された恵弁と恵聰の2人が瓜生の岩窟入り、すべての人を仏に引き合わせようとの願いから石仏を彫ったといわれています。
 石仏の数は30体ばかりで、完全でない石仏もたくさんありました。数が多いので、五百羅漢といいます。
 弘法(こうぼう)大師(だいし)が全国を遊行している時、ここを訪ねて石仏を刻んだとも言われています。
 釈迦(しゃか)如来(にょらい)・文殊(もんじゅ)菩薩(ぼさつ)・普賢(ふげん)菩薩の3像を中心に、左右に十六羅漢が配置され、釈迦の説法に聴き入る姿とか、苦行瞑想する姿であるとも言われています。
 時代が下ると、羅漢の石仏は散失して、釈迦如来・文珠菩薩・普賢菩薩・如意輪(にょいりん)観音(かんのん)菩薩の4体と十六羅漢の合わせて20体が残っています。

 別な説によると、敏達(びたつ)天皇の時代(572〜585年)、高麗僧の恵便が日本にやって来て、矢野庄にひっそりと暮らしていました。
 ある時、蘇我(そが)馬子(うまこ)が朝鮮の百済より石像の弥勒菩h像を輸入して、石川の屋敷に安置して、播磨の僧侶に仏像の世話をさせました。この石像が羅漢の石仏と言われています。

 江戸時代の記録である『但馬道之記』には次の様に書かれています。
 龍野を過ぎて小犬丸(こいぬまる)という所から右の山手にかかると、三濃(みのう)村、瓜生村という2村の間の谷に石像の五百羅漢があります。谷間左右の石に彫り付けています。旅の僧の話に、「筑紫(つくし)の羅漢と見比べても、劣ってはいない。筑紫の石像は有名だが、ここの石像は近国の人もほとんど知らない。不思議なことだ」と言ったといいます。
相生市矢野町瓜生
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羅漢石仏
 参考資料1:羅漢の石仏については、『峰相記』・『播州赤穂郡志』・『播州古跡便覧』・『兵庫県寺院台帳』などを参考にしています。
 参考資料2:仏教の伝来(公伝)は、欽明天皇の7年(538)に、百済の聖明王が仏像と経典を贈ったことにはじまるとされています。しかし、6世紀初めには、中国・朝鮮からの渡来人とともに仏教も伝来(私伝)したと考えられています。
 参考資料3:渡来人と関係の深い蘇我氏は仏教を支持し、日本古来の祭祀と関係の深い物部氏は仏教を排斥し、対立を強めていました。そこで、物部氏は、渡来僧の恵弁と恵聰を追放したのです。
 参考資料4:戒律とは「僧や尼の守らなければならない道徳的な徳目や修行上の規範」や「信者が守るべきおきて」のことです。
 参考資料5:出家とは「一般の人が僧侶になること」、還俗とは「出家した僧侶が一般人に戻ること」をいいます。
 参考資料6:弘法大師が矢野庄と関係があるといわれるのは、矢野庄は東寺の荘園でした。東寺を創建したのが空海、つまり弘法大師だったからです。
 参考資料7:筑紫とは、古代の福岡県と大分県東部の呼び方です。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻