(07)宮本武蔵の相撲図絵馬(えま)
 剣豪宮本武蔵(1584〜1645年)が描いたという絵が、小河(おうご)観音堂に寺宝として保存されていました。
 縦1.2メートル、横0.8メートルの欅(ケヤキ)板に、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の相撲図が力強い筆で描かれています。
 武者修行中の宮本武蔵は、小河観音堂の別当(堂守)であり、槍の達人であった岡平十郎を訪ねた時に、この相撲図を描いたということです。
 宮本武蔵は、美作国(岡山県)宮本村に生まれ、継母の実家の播磨国(兵庫県)平福村で育ち、13歳の時、最初の決闘をしたという伝説があります。
 宮本武蔵が書いた『五輪書』には「播磨で生まれた」とあり、高砂市と太子町にそれぞれ、誕生碑があります。
 太子町に隣接するたつの市には、宮本武蔵が修行したというお寺があります。
 野見宿禰が当麻蹶速と相撲をしたのは、第11代垂仁天皇の時代(紀元前23年)と言われています。
 野見宿禰は出雲に帰る途中、立野(今のたつの市)で亡くなりました。宿禰を祀る宿禰神社があります。
 相生市には、宿禰塚古墳があります。

 『赤穂郡誌』 によると、「浅野内匠頭長直より、明暦元(1655)年10月4日寄進された。…堂守は平十郎という者であった」とあります。
 矢野町小河(おうご)は旧山陽道に面しています。姫路から小犬丸(たつの市)を経て、二木峠を越えて相生市に入ります。矢野川を渡り、観音堂前を通って椿峠(相生市と上郡町との境)を越えると、次の駅屋の高田(上郡町)に出ます。小河は、古来から重要な位置にあったことが分ります。
 以上のことから、野見宿禰と当麻蹶速の相撲を知っていた宮本武蔵は、矢野の小河で有名な岡平十郎を訪ね、世話になった礼として、この相撲図を描いたという伝説が生まれたのでしょう。

相生市矢野町小河
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小河観音堂の相撲絵馬
 参考資料1:『相生史話』は、小河山観音寺(観音堂)を次の様に説明しています。
 「第42代文武天皇の時代(697〜707年)、役行者(えんのぎょうじゃ)小角(おずぬ)が小河に来た時、岩間から湧き出る清水で咽喉の渇きを癒し、側にある八面玲瑞(全体が美しく澄みきった玉のよう)の自然石と大慈大悲の十一面観世音菩薩とを拝みました。
 その後、保元年中(1156〜1159年)、赤穂郡東有年黒沢山光明寺の僧行安は、役行者小角が拝んだ自然石を拝むと、この自然石が光明発しました。そこで行安は、一堂を創建しました。
 その後、元弘年中(1331〜1333年)、新田義貞が感状山を攻めた時、堂宇が焼失しました。
 江戸時代になると、行安の子孫である岡平十郎は、難治の眼病にかかり、十一面観世音菩薩に一心に祈願しました。或る夜、「岩間から湧き出る清水で洗眼せよ」の夢をみました。その結果、全快して、その礼として1間4面の堂字を建立しました。時に、承応3(1654)年正月でした。
 赤穂藩主の浅野長直は、眼病で苦しんでいたが、小河山観音寺に祈願して全快しました。
 そこで、浅野長直は、明暦元(1655)年1月、1つの伽藍を再建しました。その工事中、夏の大早魅で領民が困っていました。浅野長直は、小河山観音寺に雨乞を祈願すると、雨が降ってきました。その霊験に感服して伽藍の規模を拡大し、本堂を5間4面としました。

 次に宮本武蔵のことを調べてみました。
 宮本武蔵の生誕の地が色々あることが分ります。
 参考資料2:生誕の地を美作の国の吉野郡宮本村(岡山県英田郡大原町)とする説があります。
(1)『宮本村古事帳写』(1750年末)には、「この村のうちの宮本というところに住居跡があります。以前、宮本武仁居という者がいました。その子武蔵までは宮本の住居におりました」とあります。
(2)吉川英治『宮本武蔵』(1935年)には、「宮本村の武蔵(たけぞう)」とあります。
(3)現在、大原町には、宮本武蔵生誕の地碑や生家・山牢・墓(宮本武蔵神社)・智頭線宮本武蔵駅などがあります。

 岡山県説に対して、兵庫県説も有力です。
 宮本武蔵『五輪書・地之巻』には、「生国播磨の武士」とあるからです。
 参考資料3:宮本武蔵『五輪書(地之巻)』(1645)には、「私は、生まれは播磨の武士で、新免武蔵守藤原玄信といい、年は60歳です。私は、若い頃より兵法の道に心をかけ、13の時に初めて勝負をしました。新當流の有馬喜兵衛に打と勝ち、16歳の時に但馬国の秋山という兵法者に打ち勝ちました。21歳の時に京都へ上り、天下の兵法者に会い、数度の勝負をしましたが、勝利しないことはありませんでした。その後、国々所々に行き、諸流の兵法者に行き会い、60余度、勝負をしましたが、一度も負けたことはありません」とあります。

 参考資料4:それを受けて、生誕の地を印南郡米田村(兵庫県高砂市米田町)とする説があります。
(1)宮本伊織『泊神社棟札』(1653年)には、「作州に神免顕氏という者がいました。天正年間(1573〜1591年)、あと嗣ぎが無いまま、筑前(福岡県)の秋月城で亡くなりました。遺言により家を継承て、武蔵掾玄信と名乗りました。その後、氏を宮本と改めました。
 また、武蔵にも、子が無かったので、私(伊織)が養子となりました。 そこで、私は、今は宮本氏を名乗っています」とあります。
(2)宮本伊織『小倉碑文』(1654年)には、「父の新免は、無二と号し、十手の家を仕事にしていました。宮本武蔵は、その家業を継ぎ、また、朝鑚暮研(朝晩、学問や道理などを深くつっこんで研究)した」とあります。
(3)現在、高砂市には、宮本武蔵生誕の地碑があります。

 参考資料5:さらに、生誕の地を揖東郡宮本村(兵庫県太子町宮本)とする説があります。
(1)平野庸脩『播磨鑑』(1762)には、「宮本武蔵は、揖東郡鵤の近くの宮本村で生まれました。若い時より兵術を好み、諸国を修行し、天下に名高い。武蔵流と言って、門人が多い。しかし、大名には仕えない」とあります。
(2)岡山運輸事務所『沿線誌集成』(1927年)には、「揖保郡石海村字宮本は、世に名高き宮本武蔵の出生地と言い伝えています」とあります。
(3)「鵤の近くの宮本村」とか「石海村字宮本」とは、現在は太子町宮本のことです。林田川の宮原橋の東岸を東に進むと石海神社があり、ここが宮本地区です。石海神社の境内に剣聖宮本武蔵誕生の地碑があります。宮本地区から林田川に沿って約3キロ北に行くと本竜野の旧山陽道に出ます。旧山陽道を西に進むと、龍野城下に着きます、龍野城下の園光寺には、「宮本武蔵修練之地」という石碑があります。
 たつの市の隣の相生市には、野見宿禰の墓と伝えられる宿禰塚古墳があります。

 参考資料6:佐用郡平福村(兵庫県佐用町平福)は宮本武蔵と深い関係といわれています。
(1)豊田景英『二天記』(1776年)には、「新免武蔵藤原玄信は、村上天皇の皇子具平親王の末裔で、播磨国の佐用の城主である赤松円心の子孫です。理由があって、母方の姓である宮本を名乗っています。天正12(1584)年3月播州で生まれました」とあります。
(2)現地の案内板には、「宮本武蔵は、父新免(平田)武仁斉(無二斎)と母於政との間で、美作の宮本村で生まれ、幼名を弁之介と言いました」とあります。
(3)「宮本武蔵決闘の場」という案内板には、「剣豪武蔵は、天正12(1584)年に母・於政と死別、父・無二斎が、利神城主・別所林治の娘よし子を後妻に迎えたので、武蔵はこの義母に育てられた。武蔵7歳の時、父が死去、義母は武蔵を残し平福に帰り、田住政久の後妻となった。武蔵は、義母の後を追い、その叔父正蓮庵の道林坊に預けられ、薫陶をうけ、道林坊の弟長九郎に武芸を学んだ。
 武蔵13歳のとき、「何人なりとも望みしだい手合せいたすべし。われこそ日下無双兵法者」という、新当流の達人・「有馬喜兵衛の高札をみて、ここ金倉橋のたもとで初勝負をいどみ、一刀のもとに倒したといわれる」とあります。
(4)宮本武蔵の『五輪書』に「13の時に初めて勝負をしました。新當流の有馬喜兵衛に打と勝ち…」とあります。現在、平福には、宮本武蔵決闘の場という石碑や継母が再婚した田住家の長屋門があります。

 参考資料7:『日本書紀』には、「(第11代垂仁天皇の時代)、”当麻村に勇悍な人がいます。当麻蹶速といいます”と進言しました。その当麻蹶速は「自分の力に並ぶ者はいないだろう。生死をかけて力比べをしていみたいものだ」と豪語していました。それを聞いた天皇は、群臣を招いて”力比べのできるような者はいるだろうか”言われた。”出雲の国に野見宿禰という勇士がおります」と進言しました。野見宿禰が出雲からやって来ました。当麻蹶速と野見宿禰に角力(スモウ)をとらせました。2人はたがいに向いあって立ちあがり、おのおの足をあげて蹴り合いました。野見宿禰は当麻蹶速のあばら骨を踏み砕き、また、その腰を踏みくじいて、蹶速を殺してしまいました。そこで、天皇は、当麻蹶速の土地を奪い、ことごとく野見宿禰に与えました」とあります。
*解説1:野見宿禰と当麻蹶速が相撲をとったという場所が、奈良県桜井市の相撲神社です。
 ちなみに、桜井市以外には、野見宿禰を祀っている神社は、東京都の墨田区、愛知県の一宮市・豊田市、滋賀県の水口町、京都市、大阪府の高槻市・堺市・藤井寺市、兵庫県のたつの市、奈良県の奈良市・当麻町鳥取県の鳥取市、島根県の出雲市・松江市・宍道町、山口県の防府市、福岡県の大宰府市、佐賀県の吉野ヶ里町などにあります。

 参考資料8:『播磨国風土記』には、「この地を立野と名付けた理由は、昔、野見宿祢が出雲の国に帰ろうとして、日下部野にやって来てそこで宿泊しましたが、急に病気になって亡くなりました。その時、出雲の国の人がやって来て、多くの人が野に並んで立って、川原の小石を運んでは、積み上げて墓を作りました。そこで、立野と名付けました。その墓屋も名付けて出雲の墓屋としました」とあります。
*解説2:この立野が後の龍野で、現在のたつの市です。出雲の墓屋と言われる所に野見宿禰神社があります。第32代横綱玉錦の玉垣や第44代横綱栃錦の直筆「力水」の石碑などがあります。
 参考資料9:今回は、『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』などを参考にしました。
 参考資料10:『相生史話』は、昭和38(1963)年、小林楓村氏が書いたものです。
 参考資料11:宮本武蔵伝の相撲図絵馬は、残念ながら昭和59(1984)に焼失してしいました。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』