(08)北坂峠の北坂(きたさか)地蔵
 相生市の相生と古池の境に北坂(きたさか)峠(とうげ)があります。そこには、九助地蔵が祀(まつ)られており、今も、地元の人から熱く信仰されています。
 そこには次のような話の残されています。
 安永年間(1771〜1781)より天候不良が続いていましたが、天明2(1782)年には、旱魃(かんばつ)・長雨・ウンカなどの虫害で日本は凶作となりました。
 天明3年には、浅間山が噴火したり、日射量の低下による冷害で農作物は全国的に大打撃を受けました。
 天明4年には、深刻な飢饉(ききん)に襲われました。
 天明6年には、飢饉により米価が高くなりました。
 天明7年には、米価は通常の4〜5倍になりました。
 日本史では、天明2年〜天明8年の飢饉を天明(てんめい)の大飢饉といいます。
 赤穂藩が支配する相生村は、当時、漁業を主産業としていましたので、米や雑穀をなどを他の村より移入していました。
 赤穂藩は、飢饉に対応して、村々に対し穀留(米穀などの移動禁止)を命じました。そこで、相生村の人々は、その日の食べ物にも困るようになりました。

 困った庄屋の海老名(えびな)彌八郎(やはちろう)ら村役人は、赤穂藩の加里屋(かりや)奉行に村の窮状(きゅうじょう)を訴えて、救米(きゅうまい)を嘆願しました。しかし、赤穂藩は、貯蔵米が少ないことを理由に、その嘆願を取り上げませんでした。
 天明7(1787)年6月17日、村役人らが必死に再度嘆願したので、赤穂藩は、今度はその訴えを認めました。
 17日夕方、赤穂藩から救米が届けられましたが、それはわずかに10石でした。村人は、お粥(かゆ)にして配っている時、米の小売商の不正が表面化しました。
 17日夜、村人の不満は一気に爆発し、角谷池の土手に集合した後、近くの田圃(たんぼ)のわらぐろに火をつけたり、「強訴(ごうそ)じゃ、強訴じゃ」と叫んで気勢(きせい)を上げました。びっくりした庄屋ら村役人が鎮めようとしましたが、かえって石を投げつけられるしまつでした。
 17日夜より18日未明、勢いづいた村人は、仁左衛門・清七ら6軒の米小売商を襲撃しました。
 18日、村役人の小左衛門の尽力で、村人は、落ち着きを取り戻して、自分の家に帰りました。

相生市川原町
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相生村の北坂地蔵
 6月17日夜、この騒動は、赤穂藩の加里屋奉行の藤田貢(みつぐ)に報告されました。
 18日、加里屋奉行の藤田貢ら赤穂藩士が相生村にやって来て、光明寺を評定所としました。そして、一揆に参加したとして多数の村人を捕まえました。
 18日夕方、香取八郎左衛門が光明寺に到着し、取調べを開始しました。
 21日、首謀者として21人が赤穂の加里屋に連行されました。
 22日、赤穂藩は、1990人の村人に対して、1人5合の飯米(はんまい)を支給しました。飯米の支給は24日まで続き、合計約30石が支給されたといいます。
 7月1日、加里屋に連行された21人の取調べが終了しました。
 7月22日、厳しい取調べにあった21人は、それでも首謀者の名を明かしませんでした。困った赤穂藩は、九助を首謀者として、決着をつけることにしました。
 10月9日未明、九助は、赤穂の尾崎川原で処刑され、その首は、相生村の北坂峠で獄門にかけられました。
 10月11日、村人は、九助の菩提(ぼだい)を弔い、その義挙(ぎきょ)を子孫に伝えるため、地蔵尊を建立しました。
 現在、「天明七年十月十一日」という日付を刻んだ地蔵尊の台座が残っています。今も、村人は、毎年10月に、九助の菩提を弔って、このお地蔵さんお参りしています。
 先日(2008年5月5日)、このお地蔵さんの写真を撮るために現地を訪問しました。この時も、地元の方が新しい花をお供えしていました。
 地元の人は、「九助地蔵」とか「おたすけ地蔵」とも呼んでいます。

 参考資料1:今回は、『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』などを参考にしました。
 参考資料2:天明の頃は、浅間山の噴火・冷害・旱魃・長雨・虫害など自然災害が多発し、自然に依存する農業は大打撃を受けていました。
 参考資料3:天明の頃、政治の実権を握っていたのは、田沼(たぬま)意次(おきつぐ)でした。田沼意次は、悪化する幕府の財政赤字を食い止めるために、農業政策よりも重商主義政策を採用しました。その結果、飢饉は全国規模に拡大しました。
 参考資料4:天明の頃は赤穂藩は、第7代森忠賛(ただすけ)の時代でした。
 参考資料5:「わらぐろ」は、田んぼで稲を刈り取って脱穀した後の藁(わら)を円錐状に高く積み上げたもののことです。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』