(13)菅原道真と汐見塚(しおみづか)
 むかし那波の人たちは、山の中腹に住んでいた。ところが陸は産業会館のつい近くまでが海だったが、那波のように山の中腹ではなく、殆んど平地に住んでいた。
 山の中腹の住民からみると、海岸に近い陸(りく)に住んでいる陸(くが)の人たちがうらやましかった。
 相生市相生には、相生天満神社(旧村社)があります。
 祭神は、菅原道真です。
 海老名氏の祖である家李は、陣中で、菅原道真の像を得て、これを家に伝えてきました。
 建久2年(1191)、相生町の北方山麓に一社をたてて、菅原道真の像を奉斎しました。これが相生天満神社の創建と言われています。
 若狭野野々には、若狭野天満神社(旧郷社)があります。
 祭神は、天忍穂身命(あめのおしほみのみこと)と菅原道真の二神です。
 創立年代はよく分かっていません。
 しかし、むかし、山城国(今の京都府)にある北野天満宮から勧請して、天忍穂身命と、いっしょに菅原道真を奉斎しました。これが若狭野天満神社の創建と言われています。
 江戸時代、矢野18か村の産土神(うぶすなのかみ)として崇敬され、領主の信仰もたいへん多かったと言われています。
 毎年の7月25日には、若狭野天満神社は、字の神様として、児童の習字奉納がありました。
 そんな関係で、陸には、菅原道真に関して次のような話が残っています。
 菅原道真が陸に来て、南の方を見ると、海の水が大きくみちひきする様を見ました。
 そこで、この地を汐見塚といいます。現在の汐見台の当たりだと言われています。
相生市汐見台
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汐見塚辺りより相生湾を望む
参考資料1:相生の天満宮には、次のような伝説も残っています。海老名家李は、鎌倉の将軍源頼朝から命じられ、播磨国矢野庄の下司職として赴任しました。この時、家李は、戦場で拾って大切にしていた菅原道真の木像を持って来ました。建久2年(1191)、家李の子の盛重は、菅原道真の木像を天満大自在天神として、神社を創建しました。以降、この天神を守護神として祀ったと言われています。
 陸天満宮には、次のような伝説も残っています。菅原道真は、大宰府に配流の途中、相生の沖にやって来ました。この時、急に嵐とななったので、船から降り、相生湾の奥にある陸(くが)の岩山(上ノ山)で嵐が治まるのを待ちました。波も穏やかになったので、再び船に乗って、大宰府に向かいました。後に道真の不慮の死を知った陸の人々は、岩山に天神を祀ったと言われています。現在も菅原町という地名が残っています。
 相生市の天満宮は、若狭野・相生・陸地区以外では、緑ヶ丘・矢野地区にあります。
参考資料2:兵庫県の著名な天満神社・天満宮を調べると、たくさんあります。
 宝塚市には天満神社があります。祭神は、菅原道真です。延元年間(1336年頃)、摂津(今の大阪府)住吉の豪族であった若池貞満は、京都北野天満宮を奉じて祀ったと言われています。
 芦屋市に打出天神社があります。祭神は、菅原道真です。以前は、産土神を祀っていましたが、後に、京都北野天満宮の菅原道真を奉斎したと言われます。
 神戸市中央区には北野天満神社があります。祭神は、菅原道真です。治承4(1180)年、平清盛は、
「福原遷都」に際し、京都北野天満宮から菅原道真を勧請したと言われています。
 神戸市須磨区には綱敷天満宮があります。祭神は、菅原道真です。901(延喜元)年、菅原道真は、大宰府に左遷された時に立ち寄り、その時、里人が綱で円座を作ってもてなした言われています。
 高砂市には曽根天満宮があります。祭神は、菅原道真です。社伝では、901(延喜元)年、菅原道真
は、大宰府に左遷された時に、伊保の港から上陸し、「我に罪なくば栄えよ」と松を手植えしたと言われています。その後、播磨国に流罪となった子の菅原淳茂が創建したと伝えられています。
 姫路市には大塩天満宮があります。901(延喜元)年、菅原道真は、大宰府に左遷された時に、氏子地域に立ち寄ったと言われています。その後、旧大塩村字伊屋ケ谷の伊屋明神では、祭神として、天穂日命・大己貴命・菅原道真を奉斎しました。さらに、菅公を主神として、天満宮と改称したと言われています。
 同じく、姫路市には廣畑天満宮があります。祭神は、菅原道真です。碑文では、明治2(1869)年、播磨国飾磨郡広村ノ内広畑村の天満神社(村社)に、京都北野天満宮の分霊を迎えて、蛭子大神と天児屋根命を合祀しました。ここに、廣畑天満宮は広畑村の産土神社となりましたと言われています。

 以上の話から、901(延喜元)年、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったという由緒の神社と、以前は別な神を信仰していたが、その後、京都北野天満宮から菅原道真を勧請したという由緒の神社があることが分かります

参考資料3:菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったとされる神社を調べてみました。
 京都の長岡天満宮の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 大阪の大阪天満宮の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 大阪の綱敷天満宮の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 和歌山の和歌浦天満宮の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 神戸の綱敷天満宮の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 洲本の河上神社天満宮の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 高砂の曽根天満宮の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 姫路の大塩天満宮の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 家島の家島神社の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 岡山の硯井天満宮の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 広島の御袖天満宮の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 山口の防府天満宮の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 福岡市の綱敷天満宮の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 福岡の築上綱敷天満宮の由緒は、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったと言われています。
 福岡の太宰府天満宮の由緒は、菅原道真が左遷された場所です。
 日本三大天神とは、京都の北野天満宮・大阪の天満宮(又は防府天満宮)・太宰府天満宮です。

 以上の話から、901(延喜元)年、菅原道真が大宰府に左遷された時に立ち寄ったという神社を検証すると、京都から長岡京市に立ち寄り、大阪へ行き、大宰府からのルートから外れた和歌山に行っています。
 兵庫県で見ると、神戸から淡路により、高砂・姫路に戻り、更には家島にと、ジグザグに物見遊山のように立ち寄っています。
 兵庫を離れると、岡山・広島・山口に立ち寄っています。
 福岡に上陸すると、何か所も休憩するように、立ち寄っています。
 これは、誰が見ても不自然です。

参考資料4:そこでさらに、全国の天満宮を調べてみました。全国に分布し、その数は1万社、三番目の多さだといういことです。
 北海道・東北地方では、北海道・青森県・ 宮城県・福島県・山形県にありました。
 関東地方では、栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県にありました。
 中部地方では、石川県・福井県・静岡県・愛知県・岐阜県にありました。
 近畿地方では、滋賀県・京都府・大阪府・三重県・奈良県・和歌山県・兵庫県にありました。
 中国・四国地方では、岡山県・広島県・山口県・島根県香川県・愛媛県・高知県にありました。
 九州地方では、福岡県・長崎県・鹿児島県にありました。

参考資料5:京都と大宰府のルート以外の天満宮の由緒を調べてみました。
 栃木県の天満宮の由緒は、京都の北野天満宮の菅原道真を勧請して北野原と号し、北原天神と称したと言われています。
 仙台市の榴岡天満宮の由緒は、1667(寛文7)年、三代藩主伊達網宗公が菅原道真公(天満大自在天神)の真筆を奉納して以後、天神様と称されるようになったと言われています。
 東京の谷保天満宮の由緒は、901(延喜元)年、菅原道真が大宰府に左遷された時、第三子の道武が武蔵国栗原郷(現在の国立市谷保)に配流されました。903(延喜3)年、道真が死ぬと、道武は父の姿をを刻んで鎮座したのが起りであると言われています。947(天暦元)年、京都に北野天満宮が造営された時、谷保天満宮の威霊を奉上したと言われています。
 東京都文京区の湯島天神の由緒は、458(雄略天皇2)年、雄略天皇の勅命により天之手力雄命を祀る神社として創建されました。その後、1355(正平10)年、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀したと言われています。
 東京都江東区の亀戸天神の由緒は、1661(寛文元)年、菅原道真の末裔で、九州・太宰府天満宮の神官である菅原大鳥居信祐が亀戸村で天神の小祠に菅原道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりと言われています。
 関東三天神とは、谷保天満宮・湯島天神・亀戸天神です。
 愛知県岡崎市の岡崎天満宮の由緒は、1217(建保55)年、総持尼寺の鬼門除けとして、道臣命(みちおみのみこと)を勧請し、天神社を建立しました。1690(元禄3)年、菅原道真公を合祀し、岡崎天満宮と改称したと言われています。

 以上の話から、京都以東の天満宮の由緒を調べると、江戸時代に菅原道真公(天満大自在天神)を勧請して、天満宮を創建していることが分かります。
 さらに、菅原神社(埼玉県)、菅原神社 (東京都)、菅原院天満宮・菅大臣天満宮(京都府)、菅原神社・菅原天満宮(大阪府)、菅原神社(三重県) 、 菅原天満宮(奈良県)、菅原天満宮(島根県)など、全国には菅原道真の名前を冠した神社が多数あります。

参考資料6:神として崇敬を受けている人間を調べてみました。
 赤穂に大石神社があります。京都山科にも大石神社があります。ともに祭神は、忠臣蔵で有名な大石内蔵助です。
 次に、徳川家康公(東照大権現)を祭神とする東照宮には、久能山東照宮、鳳来山東照宮、岡崎東照宮、群馬県世良田東照宮、日光東照宮などがあります。
 次に、義民として有名な佐倉惣五郎を祭神としているのは、全国で20か所あるそうです。宗吾霊堂(秋田県稲川町)、東勝寺宗吾霊堂(千葉県成田市)、宗吾殿(東京都台東区)、佐倉宗吾郎大明神(愛知県春日井市)、佐倉宗吾のふるさと伝説(熊本県五家荘)、宗吾霊廟(佐賀県唐津市)などです。
 つまり、カリスマ(charisma)性を持っている人間が神として崇敬の対象になるのです。カリスマとは、辞書によると「普通の人が持ち合わせない、人を魅了する超人的な能力、またその能力を持つ人間」ということです。
 そういう点では、菅原道真は、最大のカリスマを持つ人物と言えます。次に、菅原道真と天神信仰について調べてみたいと思います。

参考資料7:ここでは、菅原道真の実像とそのカリスマ性を検証してみたいと思います。
 845(承和12)年、菅原道真は菅原是善の三男として生まれました。
 わずか5歳で和歌を詠み、10歳で漢詩を創作して神童と称されました。18歳で文章生、23歳で文章得業生、26歳でついに方略式に合格しました(天神信仰)。
 877(元慶元)年、菅原道真は、33歳で学者として最高の栄誉の文章博士となりました(天神信仰)。
 887(仁和3)年、菅原道真は、42歳の時、従五位上で讃岐守となり、讃岐国に赴任しました。
 定省親王が即位して宇多天皇となりました。藤原氏とは関係のない天皇です。阿衡事件により、宇多天皇は菅原道真を讃岐から呼び寄せました。
 891(寛平3)年、菅原道真は、宇多天皇の側近である蔵人頭で、式部少輔となりました。
 893(寛平5)年、敦仁親王(父は宇多天皇、母は藤原胤子)が皇太子になりました。
 菅原道真(49歳)は、参議となり、斉世親王(宇多天皇の第2子)の妃に娘を嫁がせています。
 894(寛平6)年、菅原道真(50歳)は、遣唐大使となります。これは藤原氏の陰謀でしたが、道真は遣唐使派遣を中止することで、自らのピンチを救いました。
 895(寛平7)年、菅原道真(51歳)は、従三位中納言に昇進し、敦仁親王を補佐しました。
 897(寛平9)年7月、宇多天皇が譲位しました。敦仁親王が即位して醍醐天皇となりました。
 899(昌泰2)年、菅原道真(55歳)は、正三位右大臣となりました。藤原時平が左大臣となりました。
 901(延喜1)年、菅原道真(57歳)は、従二位となりました 。突如、右大臣道真を太宰権帥に任ずる勅が発せられました。この時、道真は、「東風吹かば においおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠みました。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできました(飛梅伝説)。これが天満宮と梅の由縁です(天神信仰)。
 901(延喜1)年、道真が大宰府に流される途中、休息に立ち寄りました。しかし、休む場所もないので、帆綱を巻いて円座としたといいます(綱敷天神)。縄の上に坐した道真の忿怒の形相のすさまじく、荒ぶる神として恐れられていました(天神信仰)。
 903(延喜3)年、菅原道真(59歳)は、失意のうちに亡くなりました。道真は、遺言で「牛車が止まった所に墓を作るよう」に言ったので、そこを墓所(太宰府天満宮)としました。これが天満宮と牛との由縁です。
 死後、都では道真の崇りとされる異変が相次いで起こりました(天神信仰)。

 905(延喜5)年、味酒安行は、太宰府の安楽寺で、神託によって菅原天満宮を立て道真を祀りました。道真は、天満大自在天神と称されるようになりました(天神信仰)。
 909(延喜9)年4月、藤原時平(39歳)が病死しました。
  10月、時平を助けて道真の左遷に協力した参議藤原菅根が没しました。
 910(延喜10)年、908年以降、干ばつが続きました。
 919(延喜19)年、道真が亡くなった場所に、神託によって、太宰府天満宮が建てられました。
 923(延喜23)年3月、皇太子保明親王(21歳)が急死しました。「世をあげて云ふ。菅帥の霊魂宿念のなす所なり」(『日本紀略』)(天神信仰)。
  4月、菅原道真の怨霊の祟りというので、朝廷は、従二位大宰権帥から右大臣に復し、正二位を贈りました。また、昌泰4(901)年正月の詔書(道真左遷の詔)を破棄しました。
  閏4月、 延長と改元しました。
 925(延長3)年、皇太子慶頼王(5歳。母は藤原時平の娘)が亡くなり、寛明親王(3歳)が皇太子になりました。慶頼王の死は、菅原道真の怨霊によるものと噂されました。「あさましき悪事を申をこなひたまへりし罪により、このおとど(藤原時平)の御末はおはせぬなり」(『大鏡』)(天神信仰)。
 930(延長8)年6月、雨乞いの儀式をしていた清涼殿に、急きょ落雷があり、大納言藤原清貫は即死、右中弁平希世は顔を焼き、天皇も病気となりました。(清涼殿落雷事件)。これは、道真の怨霊が雷神となって猛威をふるったと信じられました(天神信仰)(火雷天神)。
  9月、醍醐天皇(46歳)が亡くなり、朱雀天皇(8歳)が即位しました。道真の怨霊に対する恐れは年とともに強まっていきました(天神信仰)。
 また、日蔵(道賢)上人が地獄巡りをした時、道真を無実の罪で太宰府に左遷した醍醐天皇が、地獄で苦しむのを見たとされていいます(天神信仰)。
 朝廷は、これらを道真の祟りだと恐れ、子供たちを赦免し、京都に呼び戻しました。
 936(承平6)年、藤原忠平が太政大臣になりました。忠平は、道真と親しく、その左遷にも反対しました。その結果、その子孫を守護するという神託があったと言われています(天神信仰)。
 947(天暦元)年 比良宮の神官の子太郎丸に神託がおり、火雷天神が祀られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとしました(天神信仰)。
 959(天徳3)年、右大臣藤原師輔によって京都の北野天満宮が増建されました。
 986(寛和2)年、慶滋保胤の「菅丞相廟に賽する願文」によると、「天神は文道の祖、詩境の主である」とあります。天神を学問の神としています(天神信仰)。
 987(永延元)年、一条天皇が祭祀を行ない、この時の宣命に、「北野に坐します天満宮天神」とのべました。これより北野天満宮天神の名が公式に決定しました。
 993(正暦4)年5月、道真に正一位・左大臣が贈られました。
  10月、崇りをなす天満天神への恐れから、道真に人臣として最高の太政大臣が贈られました(天神信仰)。

 1004(寛弘元)年、一条天皇は、北野天満宮に初めて行幸しました。
 1219(承久元)年、藤原信実の『北野天神縁起絵巻』によると、「本地を尋ぬれは観音の垂跡也。慈悲の弘誓浅からず」とあります。冤(無実)の罪でぬれ衣をきせられた人々が、天神のご利益によって潔白となった話が出てきます。恐いだけでなく、慈悲深く、弱者を助け、孝行・正直の者を憐れむ、やさしい神でとして描かれています(天神信仰)。
 1240(仁治元)年、『吾妻鏡』によると、幕府は、「起請文は京都ではすべて北野において書くべし」とあります。正直の神・信義の神から、北野天満宮の牛王宝印は起請文として利用されるようになりました(天神信仰)。
 1246(寛元4年)年、この頃、菅原為長(1158〜1246)の『天神講式』によると、「一切の願望において、成就円満せざるはなし。諸道芸能において淵源に達せざるはなし」とあります。一切の願望をきくけれども、諸道芸能にはとくに利益があると書かれています(天神信仰)。
 1607(慶長)12年、豊臣秀頼は、父豊臣秀吉が厚い信仰していた北野天満宮の社殿を修造しました。現在の社殿がそれです。
 1686(貞享3)年、『歌林四季物語』によると、「心だに誠の道にかなひなは、祈らずとても神やまもらむ」とあります。天神は、正直を喜ぶ神として描かれています(天神信仰)。
 各地の『縁起』にも、「おほよそ天神に信仰申さむ人は、まづ忠孝をさきとし、是非をわきまへ、正直を存じ、慈悲の心ふかくて人をたすけ、民をやすくして、なにごとにてもどうりをそむかず、祈請申さんことは、とき日をめぐらさずして、まん顧成就せんこと疑あるべからず」とあります。正直の神としての徳を説いたと言われています(天神信仰)。

参考資料8:菅原道真の実像とそのカリスマ性で見たように、天神信仰は様々な様相をしていました。
(1)まず、天神について考えてみました。古代の律令制では、祭祀を行う神祇官と政治を司る太政官を明確に分けています。明治時代の太政官制では、神祇官が復活して太政官よりも上位置かれています。
 この神祇官の神とは、天神(天津神)のことであり、神祇官の祇とは、地祇(国津神)のことです。天神地祇を簡略化して、「神祇」というのです。
 では、天神(天津神)とはどのような神を言うのかというと、高天原にいるか高天原から天降った神の総称
です。天照大神(あまてらすおおみかみ)がその代表です。
 地祇(国津神)とはどのような神を言うのかというと、その地方に現れた神々の総称です。高天原から天降った素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子孫である出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)がその代表です。
 神社の社格でいうと、官幣社は、祈年祭の奉幣を中央の神祇官から受ける神社です。国幣社は、祈年祭の奉幣を地方の国司から受ける神社です。
(2)人間である菅原道真を天神としています。神話の天照大神を天神としています。ここに天神信仰を理解する場合の困難さがあります。
 そこで、菅原道真の天神信仰の成立過程を知ることが必要になります。

(3)『賀茂縁起』に描かれている葵祭と雷の関係を考えてみました。
 昔、別雷神(わけいかづちのかみ)が神山(こうやま)に降臨しました。場所は上賀茂神社で、神は賀茂別雷神です。その後、御神託があり、走馬や二葉葵を桂の小枝に挿し飾ったと言います。
 欽明天皇の567年、日本中が風水害に見舞われ、五穀が実りませんでした。そこで、欽明天皇は、卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせると、賀茂別雷神の祟りであることがわかりました。そこで、4月の吉日を選んで、盛大に祭りを行うと、風雨はおさまり、五穀も実りったといいます。これが葵祭の起源です。
 ここで描かれている雷は、祟る神であり、農業を司る神です。
(4)『日本霊異記』に描かれている雷について考えました。
 822(弘仁13)年頃にできたという『日本霊異記』には、次のような話があります。
 敏達天皇の時代(538〜585年)、尾張国の百姓が田に水を引こうとしていた時、急に雨が降ってきたので、鋤を田に突き立てたまま雨宿りしました。すると雷鳴(神鳴り)がし、目の前に雷が落ちました。落ちた後に、小子(わらわ)がいました。百姓が鋤を振り上げて打とうとすると、その小子(わらわ)は「私を殺さないで下さい。ご恩に報います」と言います。願いどおりにすると、その小子(わらわ)は、天に帰っていきました。
 その後、百姓の家に子どもが生まれました。やがて、その子は、元興寺の童子となり、鐘つき堂の童子を食うという鬼を退治しました。
 成長して優婆塞になったその子は、王族が寺の田の水門の口を塞いで水を入れさせないので、大石で水門を塞いで寺の田に水を入れました。王族は、優婆塞の合力を恐れ、以後、妨害をしなくなりました。元興寺の僧は、その功により、優婆塞を道場法師と称するようになりました。
 ここで描かれている雷は、恐ろしい神でなく、農耕と関係のある神です。

(5)日本古来からある御霊信仰(ごりょうしんこう)についても考えてみました。
 日本人には、古来より、天災や疫病の原因を、「怨念を持ったり、非業の死を遂げた人の怨霊のしわざである」として畏れ、この怨霊を祀り鎮めて御霊とすることで、この祟りから免れようとする考えがありました。これを御霊信仰と言います。
 怨念を持ったり、非業の死を遂げた菅原道真や平将門らがその代表です。菅原道真は天神さんとなり、平将門は東京の産土神となって、祀り鎮められています。
 現在でも、家族に死者が出ると、「初七日」を執行します。これは、死者が三途の川のほとりに到着する日にあたります。三途の川のほとりに無事到着するよう故人を法要するという考えです。「四十九日」は、来世の行き先が決定する日です。「四十九日」を終えると、昔は、屋根に登って天井をめくる仕草をしました。行き先が決まった霊魂を家に閉じ込めておくと崇りに会うという考えです。
 今も日本では、「霊魂の不滅」を信じた行事が残っています。
(6)菅原道真の生前に関係のある天神信仰を見てみましょう。
 5歳で和歌を詠み、10歳で漢詩を創作し、18歳で文章生となり、23歳で文章得業生となり、26歳で方略式に合格し、33歳で学者として最高の栄誉の文章博士となりました。この結果、菅原道真は、学問の神様、書道の神様と言われるようになりました。
 菅原道真が大宰府に流される途中、帆綱を巻いて円座としました。これが綱敷天神の由縁です。その形相はすさまじい忿怒だったので、道真は荒ぶる神として恐れられていました。
 菅原道真が太宰権帥に左遷されました。「東風吹かば・・」と詠んだ梅が一晩にして大宰府に飛んで来ました。これが天満宮と梅の由縁です。
 菅原道真の遺言で、「牛車が止まった所に墓を作」りました。これが天満宮と牛との由縁です。

(7)菅原道真の死後100年に関係のある天神信仰を見てみましょう。
 死後、菅原道真は神託によって、天満大自在天神と称されるようになりました。
 菅原道真の死後、左遷した藤原時平や左遷に協力した藤原菅根が若死にしました。続けて皇太子が夭逝(ようせい)しました。凶作が続きました。これを道真の霊魂宿念、つまり怨霊の崇りだとする考えが起こりました。その祟りを鎮めるために、道真の官位を元に戻しました。
 清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫などが即死、醍醐天皇も3ヶ月後亡くなりました。これは、道真の怨霊が雷神(火雷天神)となって祟ったと信じられました。道真の子供たちを赦免しました。
 火雷天神が祀られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとしました。
 一条天皇の宣命に「北野に坐します天満宮天神」とあり、公式に北野天満宮天神となりました。
 崇りをなす天満天神を恐れ、道真に人臣として最高の太政大臣を贈りました。
 道真の死後100年は、荒ぶる神・崇り神を祀り鎮めようとしていることが分かります。

(8)鎌倉時代〜江戸時代の菅原道真に関係のある天神信仰を見てみましょう。
 無実の人々が、天神のご利益によって潔白となった話が出てきます。慈悲深く、やさしい神となりました。
 北野天満宮の牛王宝印が起請文として利用されるようになりました。正直の神・信義の神となりました。
 諸道芸能にはとくに利益があるとされています。学問のみならず、諸道の神となりました。
 鎌倉以降も天神に対する現世利益がかぶせられ、多くの信仰を得たり、深めたことが分かります。

 以上のことを理解すれば、天満宮については、単なる「おらが村の自慢話」ではなく、日本の思想史や民俗学を考える上で、貴重な素材となります。

参考資料9:「しお」には、「汐」「潮」いう表現があります。また「夕しお」「朝しお」という言葉もあります。辞書を調べると、汐は、「夕方におこるしおの干満」とありました。潮は「朝方におこるしおの干満」とありまし
た。昔の人は言葉をとても大事にしていたことが分かります。
参考資料10:産土神(うぶすなかみ)とは、「生まれた土地を守護する神」とか「先祖の発祥の地に祀られている神」のことです。
参考資料11:今回は、坂本太郎著『菅原道真』、笠井昌昭著『天神縁起説話の成立』などを参考にしました。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第二巻・『郷土のあゆみ』