(14)平家落人(おちうど)伝説
 平清盛(たいらのきよもり)の弟・平経盛(たいらのつねもり)は、那波浦(なばのうら)の東口に那波城を築きました。
 那波山城内には、真澄(ますみ)という年若い侍女がいました。彼女の許嫁(いいなづけ)は、光明山(こうみょうせん)城にいました。2人は城を抜け出して、鮎帰川(あいかへりがわ)のほとりにある長持(ながもち)石で出会い(であい)を楽しんでいました。
 寿永3(1184)年、源頼朝(みなもとのよりとも)の弟・源義経(みなもとのよしつね)は、那波城を攻撃しました。やむなく、平経盛は、那波浦の西口に築いていた雨乞山(あまごいやま)城に籠り必死に抵抗しました。
 しかし、那波浦の北口に築いていた光明山城が落城したので、平経盛は、城を捨てて佐方(さがた)にのがれようとしました。
 源義経は、雨乞山城が容易に落城しないので、佐々木高綱(たかつな)・弁慶(べんけい)らと軍議をおこないました。
 そんな時に、佐方村から来た老婆が、源義経に、この城に通ずる間道(かんどう=ぬけみち)の出入口を教えしました。源義経は、軍兵を間道より攻め入らせました。
 雨乞山城は落城し、平経盛は自害したといいます。
 その結果、那波山城の真澄と光明山城の許嫁は、離れ離れとなりました。村人は、2人が出会っていた場所を「逢(あい)帰(かへり)谷」と呼び、鮎帰(あいかへり)川の語源になったといいます。

 別な話では、平経盛は、数名の部下とともに上郡町小野豆(おのづ)に逃れ、塚穴を掘って隠れ住んでいました。やがて、源氏の厳しい探索により、捕えられました。部下の助命を願い、平経盛は自害したといいます。

 雨乞山城が落城して、平経盛は自害しました。脱出した残党も後に捕えられました。
 平経盛と行動を共にしていた相会(相生)の局は、雨乞山城を必死に逃れて、相生湾の西岸にたどり着きました。しかし、相会(相生)の局は、力尽きて、そこで亡くなりました。村人は、その地を「つぼね」と呼んで、現在の壷根(つぼね)の語源になったといいます。

 ある貴婦人(局=つぼね)の死がいが、相生湾の西岸に流れ着きました。村人は、その屍(しかばね=死がい)を山上に葬(ほうむり)りました。その場所は、今でも降る雪が積もらないといいます。
相生市壺根
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局塚(相生市史より)
 局塚(壺根1号墳)は、壺根集落の裏山(金刀比羅神社の東北の位置で、歩いて約5分)にあり、地元の人から「おつぼねさま」としてまつられています。地元の人に教えられて登って見ると、墓の基壇や石垣が残っており、その頂上には周囲を石垣で囲まれた石板がありました。
 壺根1号墳は、考古学的には、組合箱式石棺です。
 相生市では、前期古墳がないので、壺根1号墳は古い方に属する中期古墳です。
 第78代の天皇・二条天皇時代、平清盛の8男・従三位中将平盛高の死後、平盛高の妻女、男子3人、侍4人、男女の下僕3人が当村(相生市野瀬)に落ちて来ました。
 これが相生市野瀬に伝わる平家落人伝説です。
 しかし、平家の系図には、平盛高の名はありません。
史料
 「人皇七十八代之御宇、平相国の八男従三位中将平盛高之死後、妻女、男子三人、侍四人、侍奴婢僕三人、当村落来」(『正統那波史』「高畑家系譜裏書」)。

参考資料1:岐阜県の東白川村には、本村には、安江(やすえ)を性にする家が多い。その理由は、平重盛の子孫である平政氏(たいらのまさうじ)が伊勢杉谷より岐阜の岩村にやって来て、しばらく居たが、やがて東白川村に移住しました。平政氏の祖である平盛高(たいらのもりたか)は、加賀の安江郷(やすえごう)では安江氏(やすえし)を称していました。そこで、平政氏の子孫を「安江」を名乗ったのであろう。
 平家落人伝説の平盛高が平政氏の祖である平盛高と同じ人物かは不明です。
史料
 「安江を性とする者多し。其源は平重盛なりとか此の後胤たる平政氏、伊勢杉谷より起り、濃州岩村に暫く止りたる後東白川村に居を定む。政氏の祖平盛高は加州安江郷にて安江氏を稱す。此の故に、政氏の子孫世々安江を名乗りしならん」(岐阜日々新聞「東白川發展號」)。

参考資料2:「安江系図」によると、安江氏は、藤原姓富樫(とがし)氏の支流となっています。その祖は平重盛で、家紋は揚羽蝶です。揚羽蝶は、桓武平氏の代表的な家紋といわれています。
 富樫氏の13代富樫経高の時、加賀の安江郷を領有しました。平盛高は、この土地にちなんで安江盛高と称しました。
 安江氏は、木曽義仲に加勢して、源義経と戦っていました。
 寿永3(1184)年、木曽義仲は、近江で討ち死にしました。
 安江氏は、伊勢に逃れました 。

参考資料3:正史では、平経盛はどのように扱われているのでしょうか。
 天治元(1124)年、平経盛は、平忠盛と陸奥守源信雅の娘の3男として生まれました。異母兄に平清盛がいます。
 久安6(1150)年、27歳の時、従五位下に昇進します。
 保元元(1156)年、33歳の時、安芸守に就任します。
 平治元(1159)年、36歳の時、平治の乱の功により伊賀守に就任します。
 治承元(1177)年、54歳の時、正三位に昇進します。
 養和元(1181)年、58歳の時、参議に補任されます。
 寿永3(1184)年、61歳の時、一ノ谷の戦いで、子の敦盛(16歳)が熊谷直実に打ち取られます。
 元暦2(1185)年、62歳の時、壇ノ浦の戦いで敗れ、弟の平教盛とともに入水自殺します。
 文治4(1188)年、平経盛の歌は、その死後、後白河上皇の命により藤原俊成が編集した『千載集』に記録されています。源頼朝に配慮してか、「よみ人しらず」とされています。
「題しらず よみ人しらず
 いかにせむ御垣が原に摘む芹のねにのみ泣けど知る人のなき」

参考資料4:壇ノ浦の戦いで敗れて滅亡した平家の落人伝説が全国に伝承されています。
(1)山形県酒田市八幡町鳥海山麓(平家方として落ち延びた池田彦太郎秀盛兄弟が隠れ住んだと伝わっており、秀盛の後裔と称する氏が戦国時代の土豪として存在し、最上氏等の家臣となっている。
(2)茨城県久慈郡大子町古分屋敷(大庭景親の残党が落ち延びたという伝承があります)
(3)兵庫県には相生市壺根・野瀬、上郡町小野豆、波賀町引原、佐用町三日月、香美町香住区、大河内町川上集落などに伝承があります。
(4)鳥取県八頭郡若桜町(平経盛が郎党らと落ち延びて、自刃したという伝承があります)
(5)広島県庄原市( 「敦盛さん」という民謡には、熊谷直実に討たれたとされる平敦盛が実は生きて庄原に落ち延びたという伝承があります)
(6)徳島県三好市東祖谷阿佐(屋島の合戦に敗れた平国盛らは阿波(現・三好市)に住んでいたが、源氏の残党狩りに追われて、祖谷に住んだという伝承があります。阿佐集落に、平家屋敷や、平家のものと伝えられる赤旗(軍旗)が現存しています)
(7)宮崎県東臼杵郡椎葉村(那須与一の弟・那須大八郎宗久は、平家の残党を追って、椎葉山に入りました。しかし、平家の残党が農耕に励んでいたことから、残党狩りを止めました。そこで、那須大八郎は、平清盛の末孫・鶴冨姫と恋仲となり、子も生まれました。やがて那須大八郎は、役目がら、椎葉村を引き上げたという伝承があります)。この伝説を謡ったのが「ひえつき節」で、「恋の別れの那須大八が鶴富すてて目に涙」という一節があります。
(8)鹿児島県大島郡(平清盛の孫・平資盛(平重盛の子)は、喜界島に潜伏し、弟の平有盛や平清盛の孫・平行盛(平基盛の子)と合流して、奄美大島に逃れたという伝承があります)。

参考資料5:相生市以外で、平経盛と関係のある落人伝説が残っている主の地域を調べてみました。
(1)鳥取県八頭郡若桜町落折(壇ノ浦の戦で敗れた平清盛の異母弟・平経盛が郎党20余人を率いて隠れ住んだといわれる「平の経盛隠棲の洞窟」があります。一の谷の戦いの後、隠れ住んだという説も残っています)
(2)兵庫県上郡町小野豆(壇ノ浦の戦いで敗れた後、平経盛は、家来数人を連れ、播磨国の小野豆にかくれ住すみました。残党狩りをしていた源氏の侍は、川上から茄子(ナス)と箸が流れてくるのを見つけました。源氏の侍は、川を登っていくと、小野豆にたどり着きました。その時、突然、鶏(ニワトリ)が鳴きました。その声をたよってさらに進むと、平経盛らの姿を発見しました。家来の助命を条件に、平経盛は、自害して果てました。
 その後、家来たちは小野豆で生活をすることを許され、主君平経盛の墓を建てました。
 村の人は、今も、「平家塚」とよび、手厚くお祀りしています。
 また、ナスを作ったり、ニワトリを飼わないそうです)(兵庫県立歴史博物館のホームページより)

参考資料6:どうして、平経盛が落人伝説に登場するのでしょうか。調べて見ました。
(1)年表(参考資料3)で見たように、武人であると同時に歌人でもあります。
(2)『平家物語』の「敦盛最期」には、次のような興味ある記述があります。
*熊谷直実は、武者の習いとはいえ、自分の子と同じ美少年の首をとります。その少年の名を平敦盛といいます。敦盛を通じて、私たちは父親の平経盛を知ります。
 『平家物語』は琵琶法師が全国に伝えます。
 能の『敦盛』、幸若舞の『敦盛』を通じて全国に伝播します。
*世の無常を感じた熊谷直実は、法然に帰依します。この時、法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と言い、直実は「法力房蓮生」と名乗ったといいます。
 多くの人々は、法然や浄土宗を通じて平経盛を知ります。
*鳥羽上皇は、笛の名人・平忠盛に横笛を与えます。平忠盛は、嫡子の平清盛を差し置いて、平経盛に恩賜の横笛を与えます。平経盛は、恩賜の横笛を息子の平敦盛に与えます。その横笛は、青葉の笛と呼ばれ、須磨寺にあります。明治39(1906)年に唱歌として取り上げられました。
 「討たれし平家の 公達あわれ 暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛」
 この青葉の笛を通じて、平経盛を知ります。

参考資料7:『平家物語』の「敦盛最期」の口語訳です。
 熊谷直実は、一の谷の戦いに敗れ、船に乗って屋島に下ろうとする平家の大将軍呼び戻します。一騎打ちをしている間に、直実が組抑えて、首を切ろうと甲を押し上げて見ると、相手は16・7歳で、薄化粧をしてお歯黒をしていました。直実は、自分の子の小次郎と同じ年頃で、美少年でしたので、どこに刀を立てたらいいのか考えられない。
 直実は、「自分の子の小次郎が負傷しただけに、心ぐるしく思ったのに、この少年の父は、打たれて死んだと聞いたら、どれくらい嘆き悲しむだろう、哀れである、助けてやろう」と思ったが、その時はもう遅く、後ろを見ると土肥実平や梶原景時50騎が近づいてきていました。直実は、涙を抑えて、「助けようと思ったが、源氏の軍が雲霞のようにやってきている。もう、あなたは逃れられない。他人に殺させるよりは、私の手で殺して、私の後の供養をしてあげよう」と申すと、その美少年は「はやく首を切れ」という。
 直実は、泣く泣く、首を切りました。「哀れなものだ、弓矢を取る武士ほど悔しい者はない。武芸の家に生まれなかったら、このような憂き目には会わなかった」とこまごまと言い、袖を顔に押し当てて、涙を流してしきりと泣いています。
 直実が鎧や直垂をとって、首を包もうとすると、錦の袋に入れた笛を腰に差していました。源義経に見せると、これを見た人で涙を流さない人はいませんでした。後に聞けば、修理大夫・平経盛の子息で太夫・平敦盛で、17歳でありました。それより、直実の出家入道の希望は一層強くなったのだそうです。
 敦盛が腰に差していた笛については、祖父・平忠盛は笛が上手だったので、鳥羽上皇より賜ったと聞いています。平忠盛は嫡子の清盛ではなく、清盛の異母弟・平経盛に受け伝えていた笛を、平経盛の子・平敦盛が名人と言うことで持っていたとか。笛の名を「さえだ」(小枝)といいます。

史料
 ・・・とッておさへて頸をかゝんと甲をおしあふ(押仰)のけて見ければ、年十六七ばかりなるが、うすげしょう(薄化粧)してかねぐろ也。我子の小次郎がよはひ程にて、容顏まことに美麗也ければ、いづくに刀を立べしともおぼえず。・・・「小次郎がうす手負たるをだに、直實は心ぐるしうおもふに、此殿の父、うたれぬと聞いて、いかばかりかなげき給はんずらん、あはれ、たすけたてまらばや」と思ひて、うしろ(後)をきッと見ければ、土肥、梶原五十騎ばかりでつゞいたり。熊谷涙をおさへて申けるは、「たすけまいらせんとは存候へ共、御方(みかた)の軍兵雲霞の如く候。よものがれさせ給はじ。人手にかけまいらせんより、同くは、直實が手にかけまいらせて、後の御孝養をこそ仕候はめ」と申ければ、「ただゞとくとく頸をとれ」とぞの給ひける。・・・泣々頸をぞかいてンげる。「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。武藝の家に生れずは、何とてかゝるうき目をばみるべき」とかきくどき、袖をかほにおしあてて、さめざめとぞ泣ゐたる。・・・よろい直垂をとッて、頸をつゝまんとしけるに、錦の袋にいれたる笛をぞ腰にさゝれたる。・・・九郎御曹司の見參に入 たりければ、是をみる人涙をながさずといふ事なし。後にきけば、修理大夫經盛の子息に太夫敦盛とて、生年十七にぞなられける。それよりしてこそ熊谷が發心のおもひはすゝみけれ。件の笛はおほぢ(祖父)忠盛笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。經盛相傳せられたりしを、敦盛器量たるによッて、持たれたりけるとかや。名をばさ(小)枝とぞ申ける(『平家物語』「敦盛最期」)。

参考資料8:『平家物語』の「先帝身投」「能登殿最期」の口語訳です。
 平家一門は死を悟って念仏をしました。平清盛の妻・時子(二位殿)は、やがて安徳天皇(父は高倉天皇
で、母は平徳子)を抱いて、「浪のしたにも都はありますよ」と慰めの言葉をかけて、海の底へ飛び込みました。まだ10歳になるかならぬかで、海の底の水の屑のなってしまいました。
 やがて、中納言の平教盛と修理大夫の平経盛兄弟は、体が浮いて敵の捕虜にならぬように、鎧の上に碇を背負って、手に手を取って海に飛び込みました。

史料
 御念佛有しかば、二位殿やがて抱き奉り、「浪のしたにも、都のさぶらふぞ」と慰奉て千尋の底へぞ入給ふ。・・未だ十歳の内にして、底の水くづとならせ給ふ。
 さる程に門脇平中納言教盛卿、修理大夫経盛、兄弟鎧の上に碇を負ひ、手に手を取組んで海へぞ入給ひける(『平家物語』「先帝身投」「能登殿最期」)。

系図1
高階基章 ━娘 平 重盛━━━━━ 平 維盛
||━ 平 基盛
高見王 平 忠盛 平清盛 平 宗盛
||━ 平 知盛
桓武平氏 葛原親王 高棟王 平 時信 平時子 平 重衡
平時忠 平 盛子
平滋子 ━━平 徳 子
鳥羽天皇 崇徳上皇 || ||━━━━ 安徳天皇
藤原懿子 ||━━ 高倉天皇
  ||     ||
|| ||━━ 二条天皇
後 白 河 天 皇

系図2
祇園女御妹
||━ 平清盛 重盛
平  忠 盛
|| ||━ 平経盛 敦盛
|| 源信雅の娘
||━ ━━━━━ 平教盛
藤原家隆の娘

参考資料9:平家の落人という表現は、平家の落ち武者ではなくて、平家方に味方して敗れ、落ち延びた人々(平家の落ち武者を含む)という意味です。その結果、関係する人々が多くなり、全国で139か所も伝承されているのです。
 平家の落人伝説が残る兵庫県(相生市壺根・野瀬、上郡町小野豆、波賀町引原)や徳島県(東祖谷阿佐)の土地は、農耕に不適な地形をしています。
 相生市壺根の古墳は、古墳中期のものです。源平以前から、漁業を生業としてきたことが分かります。やがて農業を生業とする武家の時代になり、土地に対する信仰が重視されるようになります。
 こうしたことを背景として、自分たちの先祖は貴族の出であるという貴種伝説が誕生していきました。
 相生の平経盛落人伝説は、壇ノ浦の戦いの後の話でなく、それ以前の話が主題となっています。鳥取県八頭郡若桜町落折では、壇ノ浦の戦いの後の話とそれ以前の平経盛落人伝説が混在しています。
 歴史の中に、浪漫を感じるのは、こうした理由があるからです。

参考資料10:『那波十景』には、「逢(あい)帰(かへり)谷」の伝説を紹介しています。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第二巻・『郷土のあゆみ』