(16)矢野荘(やののしょう)と藤原定家(ふじわらのさだいえ)
 保安4(1123)年、鳥羽天皇が退位して、鳥羽上皇となりました。
 保延2(1136)年、藤原得子に相伝された久富保は、荘園として公認されました。藤原得子は、乳母・伯耆局に矢野荘の領家職を与えました。
 久安5(1149)年、藤原得子は、院号が与えられ、美福門院と称するようになりました。
 それより以前、藤原得子の乳母・伯耆局は、若狭守・藤原親忠と結婚し、娘・加賀を生みます。
 加賀は、歌人・藤原為経と結婚し、康治元(1142)年、長男・藤原隆信を生みます。
 藤原隆信は、祖母・伯耆局のもとで成人し、矢野荘の領家職を与えられます。
 加賀は、有名な歌人・藤原俊成と再婚し、長女を生みます。応保2(1162)年、次男・定家を生みます。
 加賀の長女(定家の姉)は、尾張守・藤原隆頼と結婚して、領所職のある揖保郡越部在に下っていきました。定家の姉を越部禅尼といいます。

藤原隆方 (待賢門院)
||━ 藤原璋子
藤原公実 ||━ D後白河天皇
|| B崇徳天皇
@白河法皇 堀川天皇 A鳥羽天皇
源俊房 源方子 ||━ ワ子内親王 (八条院)
||━ 藤原得子 C近衛天皇
藤原顕季 藤原長実 (美福門院)

藤原俊成
伯耆局 ||━ 女(越部禅尼)
||━ 加賀 藤原定家
藤原親忠 ||━ 藤原隆信
藤原為経
相生市矢野町小河
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矢野荘(『相生市史』より)

参考資料1:藤原定家の父・藤原俊成(ふじわらのとしなり)は、永久2(1114)年に生まれ、元久元(1204)年に亡くなった有名な歌人です。
 『新古今和歌集』には「永治元年 譲位近くなりて 夜もすがら月を見て よみ侍りける」として
 「忘れじよ 忘るなとだに いひてまし 雲居の月の こころありせば」という歌があります。
 意味は、「私は忘れないよ。だからあなたもも忘れないでとだけ言っておこう。雲居(雲のあるあたり、つまり高いところから転じて皇居のあるところ)から見える月にもし心があるならば。皇太子の体仁親王(近衛天皇)と崇徳天皇の仲が悪いので昇殿も許されなくなるだろうから。
 永治元(1141)年、崇徳天皇が譲位して、近衛天皇が即位しました。
 寿永2(1183)年、後白河上皇の命により、藤原俊成は『千載和歌集』の編集に着手し、文治4(1188)年、藤原俊成は、『千載和歌集』を完成させました。
 『千載和歌集』には、「詠み人知らず」として、平清盛末弟のh摩守・平忠度の歌が集録されています。
 「さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな」(志賀の都は荒れ果ててしまったが、山桜は昔と変わらずに 今も咲いている)。

参考資料2:藤原定家の異父兄・藤原 隆信(ふじわらのたかのぶ)は、康治元(1142)年に生まれ、元久2(1205)年に亡くなった有名な似絵(肖像画)の大家です。
 藤原 隆信の似絵として有名な作品には、神護寺の国宝・源頼朝像・平重盛像などがありあります。

参考資料3:藤原定家(ふじわらのさだいえ)は、応保2(1162)年に生まれ、仁治2(1241)年に亡くなった有名な歌人で、『新古今和歌集』・『小倉百人一首』の撰者です。日記の『明月記』でも有名です。
 『小倉百人一首』は、京都の小倉山に住んでいた藤原定家が、天智天皇から順徳院までの代表的な歌人百人の最も代表的な歌を一首ずつ選んで、年代順に配列したものです。
  100首のうち、恋の歌が43首、秋の歌が16首、女性歌人は21人、僧侶は15人が選ばれています。
 藤原定家自身は、次の歌を選んでいます。
 「来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」(待っても来ない人を待つ私は、松帆の浦で夕凪のころ焼く藻塩のように、身をこがして恋焦がれているのです)

参考資料4:矢野荘と藤原定家を理解するためには、矢野荘の歴史を知る必要があります。
 大学時代の話です。私は、ゼミの担当教授と一緒に学会に出席しました。その後の懇親会でも、教授に勧められるまま、参加しました。宴席もたけなわのころ、隣席の著名な教授が私を若い講師・助教授と勘違いしたのか、「君はどこらか来ましたか」と聞いた来ました。私は、「相生です」と言っても分からないと思い、「姫路です」と答えました。すると「姫路のどこですか」と問うので、「姫路の少し西の相生です」と答えると、「相生の矢野荘は国宝的である。是非、研究をしたまえ」とアドバイスされたことがあります。
 日本の歴史では、荘園の歴史は重要です。相生市では膨大な史料を駆使して、矢野荘を扱っています。しかし、開発領主、本家、領家、○○名、○○職、下司、下地中分などがやたら出てきます。
 幸い、大学の卒論に矢野荘を選んだ方がいました。相生市史や色々な方の援助で、なんとか、矢野荘の一部を復元できました。
 今回は1069〜1334年までの矢野荘の歴史を扱いました。古代から中世を縦断する地方の政治・経済の歴史が中央の政治・経済の歴史を反映して、見事に描写されています。「矢野荘は国宝的である」といった教授の話が実証されたように思います。
 機会があれば、1334年以降の矢野荘の歴史も紹介できればと思っています。

参考資料5:最も基本的な矢野荘の概念です。
久富保
矢野荘 (1137年)
┣━ ━━┓
例名 別名 1167年
南禅寺 1300年
(1313年) 東寺

参考資料6:11世紀の矢野荘の歴史です。
1069年、後三条天皇は、荘園整理令を出す
1071年、秦為辰(はたのためとき)は、裁判で久富保の所有権を確保する
1075年、秦為辰は、赤穂郡司の地位を利用して、人夫の動員を国衙に申請する
1094年、藤原顕季が播磨守(〜1110)となる。このころ、秦為辰は、播磨守・藤原顕季に久富保を寄進する
このころ、久富保は、藤原顕季の長子・藤原長実(因幡・尾張・伊予・播磨守を歴任)にゆずられる
このころ、久富保は、女房二条殿に譲られる

参考資料7:12世紀の矢野荘の歴史です。
1123年、白河法王は、5歳の崇徳天皇を即位させる。退位させられた鳥羽天皇は上皇となる
1127年、惟宗貞助は、久富保の下司をつとめる
1129年、白河法皇が亡くなると、鳥羽上皇は、藤原長実の娘・藤原得子(後の美福門院)を妃とする
1129年、鳥羽上皇が院政を開始すると、鳥羽上皇のもとに膨大な荘園が集まる
このころ、久富保は、藤原長実の娘・藤原得子にゆずられる
1136年、藤原得子は、院庁に対して久富保の立券を求める申請をする
1136年、藤原得子に相伝された久富保は、荘園として公認される。藤原得子(後の美福門院)は、乳母伯耆局に久富保の領家職を与える
1137年、久富保は、矢野荘として立券される。この時、惟宗朝臣が矢野荘の下司をつとめている
「白河本東寺百合文書」によると、田畠163町2反20代とある
1141年、鳥羽上皇は、崇徳天皇(23歳)を退位させ、3歳の近衛天皇(父鳥羽上皇、母藤原得子)を即位させる。藤原得子は、皇后となる
1141年、皇后・藤原得子は、御願寺・歓喜光院を建立する
1149年、藤原得子は、院号が与えられ、美福門院と称する
このころ、矢野荘は、八条院時子内親王(父・鳥羽上皇、母・美福門院得子)にゆずられる
1160年、美福門院得子が没する。八条院は、矢野荘を例名と別名に分割する矢野荘の預所職は、美福門院の乳母・伯耆局に与えられる別名を歓喜光院に寄進する
1167年、左馬允菅原某が、別名とよばれる種友名43町1反30代の所当米等を歓喜光院政所に納めることを誓う。左馬允菅原某が別名の下司となる。別名をふくむ歓喜光院領は、八条院のもとにあつめらえた多くの荘園の一部として、代々伝えられる
1175年、伯耆局は、矢野荘の預所職を孫の右馬権頭藤原隆信に与える。これより鎌倉時代をつうじて矢野荘の預所職は、隆信の子孫に代々伝えられることとなる
1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡する。本補地頭が全国に配置される
1186年、歓喜光院は、地頭と称する海老名四郎能季が歓喜光院領播磨国矢野荘別名に妨害を加えたとして、朝廷を通して幕府に訴える。この時の別名の下司は矢野馬次郎盛重である
1186年、関東御家人・海老名季能が相生に着任し、別名下司で開発領主・矢野馬次郎盛重とトラブルを生ずる
1192年、源頼朝が鎌倉幕府を創設する
1199年、矢野荘例名の預所は、藤原隆信の子・隆範に相続される

参考資料8:13世紀の矢野荘の歴史です。
1221年、承久の乱が起こる。惟宗氏は、京方に与したために、乱後、久富保・下司職が没収される。承久の乱の恩賞として、海老名家季は、矢野荘例名の地頭職を手に入れる。これを新補地頭という
1223年、後高倉上皇は、皇女の安嘉門院(邦子)に八条院領の大部分をゆずる
1223年、海老名氏は、新補地頭として例名地頭職・浦分地頭職を保有する
このころ、未開発であった那波・佐方の開発が進み、惣荘(若狭野・矢野)と浦分(那波・佐方)のまとまりができる
1235年、別名の下司・矢野馬次郎盛重は、養子・上有智蔵人頼保に別名下司職をゆずる
1241年、矢野荘の領家と地頭の間で争いが起こり、六波羅探題が裁決を下す
1251年、藤原隆信の子・藤原隆範は、矢野荘例名のうち那波浦(佐方浦を含む)を孫の宇曽御前(安嘉門院大弐局)にゆずる
1253年、矢野荘例名の預所職は、藤原隆範の子・為綱に相続される。隆範の子・藤原為綱は、惣荘(若狭野・矢野)の領家職を息子範親にゆずる
1259年、本家の安嘉門院は、藤原範親の矢野荘例名の領家職を承認する
1264年、海老名家季の子・季景は、海老名三郎季直に例名と例名内浦分(那波・佐方浦が中心)の地頭識をゆずる
1270年、宇曽御前は、嫡子・有信に那波浦(佐方浦を含む)をゆずる
1279年、上有智蔵人頼保は、海老名季茂と縁組をむすび、養子・海老名袈裟王丸に別名下司職をゆずる。その結果、海老名氏は、正式に別名下司職を手に入れたことになる
1283年、安嘉門院(邦子)が没する。八条院領は、後堀川天皇の皇女・室町院(峰子)をへて、亀山上
皇(大覚寺党初代)に伝えられる
1295年、矢野荘例名の預所職は、藤原範親の養子・範重に相続される
1295年、六波羅探題の仲裁で、地頭・海老名泰季、領家方雑掌・左右衛門尉行方の間で、那波・佐方以外の例名を下地中分する。その結果、寺田氏は、重藤名の4分の1を失う。そこで、領家分の管理をめぐり、寺田法念と預所職藤原冬綱が争う
1300年、亀山上皇は、矢野荘別名を南禅寺に寄進する。これ以後、別名は南禅寺の荘園として、室町時代をつうじてその支配を受ける

参考資料9:14世紀の矢野荘の歴史です。
1305年、亀山上皇が没し、後宇多上皇が八条院領を相続する
1306年、宇曽御前の嫡子・有信(出家して信覚)は、那波浦の半分と佐方浦を藤原氏女にゆずる。有信は、のこる那波浦半分を藤原得業丸にゆずる
1313年、後宇多上皇は、全国15カ所の荘園を東寺に寄進する。当然、矢野荘例名(那波浦・佐方浦を含む)も東寺に寄進される。東寺は、矢野荘例名を一円支配する
1313年、東寺は、藤原氏の預所職を解任し、沙弥道智を預所職に任命し年貢を徴収させる
このころ、別名の本家職は、八条院の猶子・春華門院(後鳥羽上皇の娘、昇子内親王)が相続する
このころ、別名の本家職は、異母兄弟・順徳天皇が相続する
1314年、寺田法念は、在地領主として成長をめざし、南禅寺領の矢野荘別名に討ち入る。寺田法念は、別名と例名の境界部分の田島の支配をめざす。他方、海老名季茂は、別名下司職をめぐって本家の南禅寺と争う
1317年、後宇多上皇は、惣荘に加えて浦分と重藤名も東寺に寄進し、現地での支配を東寺に委ねる
1317年、寺田法念は、公文職を解任されるが、重藤名を支配し続ける。東寺は、法念を悪党と非難し、有力農民を組織して法念に対抗する
1319年、寺田一族は、東寺・有力農民連合群に敗北する
1324年、海老名季茂(袈裟王丸の元服名)は、嫡子・彦五郎頼重に別名下司識をゆずる
1333年、建武の新政で、後醍醐天皇は、理由なく没収された本領は回復する方針を示す。その結果、東寺は、矢野荘例名・那波浦・佐方浦が安堵される。寺田範長は、例名公文職・重藤名が安堵される
1334年、海老名季茂の嫡子・彦五郎頼重は、海老名源三郎影知に別名下司識を譲る

参考資料10:矢野荘を知るには、荘園の経済構造を知る必要があります。荘園の経済構造を簡単に説明することは、史料が散逸している現在、非常に困難です。幸い、相生市の矢野荘は、東寺に管理さられていたことから、まとまって、しかも、膨大な史料が残されています。
 ここでは、「千年の矢野荘」(PDF半)の一部を紹介します。詳細は、ホームページでご覧下さい。

 荘園の所有者は、租税の負担から逃れようとしました。一方、国司(今でいえば県知事)は荘園に介入し、課税しようとします。荘園の所有者(開発領主)は、国司より上位の貴族や寺社に荘園を寄進して、国司の課税から荘園を守ってもらうことにしました。貴族たちは荘園を守る代償と、農民から集めた年貢の一部を開発額主から受け取りました。
 ここで、荘園の所有者は二重になります。在地領主は現地を管理して、その役割にみあう収入を得ます。これを預所職(あずかりところしき)といいます。貴族や寺社は、国司の介入を阻止したことにみあう収入を得ます。これを本家職(ほんけしき)といいます。荘園の所有関係は、二重どころではなく,何重もの所有関係が錯綜していました。
 職(しき)を確保しなければ、それにみあう収入は入りません。人々は、職の確保に必死でした。ときには、訴訟をおこし、ときには、武力で職を確保しようとしました。訴訟には所有関係を証明する文書が必要です。文書を手放すことは、所有権の喪失を意味していました。

矢野荘に関する職(しき)
@ 京都 本家職 名義上の所有者、領家を指名することができる 皇室・社寺
A 京都 領家職 預所を任命し、現地を管理させる 下級貴族
B 相生 預所職 領家に任命され、現地に赴任して管理する代官 貴族の家臣
C 相生 公文職 文書などを管理し、荘園を差配する現地の有力者 寺田一族など
D 相生 地頭職 鎌倉幕府ができてから、荘園に入り込んできた 海老名氏など
E 相生 名主職 ひとまとまりの田畑を管理する  
F 相生 作人 名主のもとで田畑を耕作する、初期は1年契約  

 中世では、土地所有の実務は、B預所C公文・下司D地頭など在地の有力者が行っていました。太閤検地は、これを否定し、大名が土地と耕作人を直接支配しようとしたものでした。「抵抗する者はなで切り
にせよ」という豊臣秀吉の強大な権力によって検地が強行され、BCDのような在地領主は消滅します。 秀吉は、刀狩りで農民の武装を解除する代わりに、耕作者の権利を保証しました。太閤検地によって、荘園は消滅し、「実力で所領を守る中世」が終わります。

参考資料11:矢野荘を知るには、美福門院を知る必要があります。美福門院を知るには、鳥羽天皇・上皇と保元の乱を知る必要があります。
1.保元の乱の背景(@Dは、上記掲載の系図番号と一致)
 @白河法皇は祗園の女御に養育させていた藤原璋子(17歳)を自分の子ども(15歳。後の鳥羽天皇)の中宮にします。
 待賢門院藤原璋子とA鳥羽天皇との間に生まれたのが、崇徳と後白河です。
 B崇徳天皇は白河法皇の子と噂され、鳥羽は崇徳を「叔父子」(おじご)と呼んでいました。
2.経過
 1123(保安4)年、顕仁親王(父は鳥羽天皇、母は藤原璋子)が皇太子になりました。時に5歳でした。白河法王は、成人した鳥羽天皇(21歳)を退位させました。顕仁親王が即位して崇徳天皇となりました。時に5歳でした。鳥羽天皇は、鳥羽上皇となりました。
 1129(大治4)年1月、摂政の藤原忠通の娘である藤原聖子は、崇徳天皇の女御となりました。
 7月、白河法王が亡くなりました。時に77歳でした。鳥羽上皇(27歳)は、祖父にならって院政を開始しました。
 1132(長承元)年、平忠盛は、鳥羽上皇のために千躰観音堂(三十三間堂)を造営しました。鳥羽上皇は、平忠盛の昇殿を許可しました。
 1139(保延5)年、体仁親王(父は鳥羽天皇、母は藤原長実の娘・藤原得子)が皇太子となりました。時に4カ月児でした。鳥羽上皇が皇太子になったのが8ヶ月でしたから、記録更新です。父の白河法王に反対されていた藤原得子を、父の死後、鳥羽上皇が娶り、体仁親王が生まれました。
 1141(永治元)年、崇徳天皇(23歳)は「父」の鳥羽上皇に強要されて譲位しました。「父」が鳥羽上皇である体仁親王が即位して、C近衛天皇となりました。時に3歳でした。その結果、藤原聖子が皇太后(先帝の后)、藤原得子が皇后となりました。
 1155(久寿2)年7月、近衛天皇(17歳)が亡くなりました。近衛天皇の母・美福門院得子は、「近衛天皇の死は、藤原頼長らの呪咀が原因である」と鳥羽法皇に訴えました。その結果、藤原頼長は鳥羽法皇の信を失いました。
 同7月、鳥羽上皇は、重仁親王(父は崇徳天皇、母は法印信縁の娘)を差し置いて、崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(父は鳥羽天皇、母は藤原璋子)を即位させました。D後白河天皇(29歳)です。そこで、藤原頼長は、鳥羽法皇に譲位を迫られたことに不満を持つ崇徳上皇に接近しました。
 1156(保元元)年7月2日、鳥羽法皇が亡くなりました。時に54歳です。
 同7月10日、崇徳上皇は、藤原頼長、源為義・為朝親子、平忠正を召集して軍議を諮りました。
 同7月11日、後白河天皇は、藤原忠通・藤原信西・源義朝・源頼政・平清盛を招集して軍議を諮りました。義朝の提案で、天皇側は奇襲攻撃をかけ、保元の乱を勝利しました。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』