音楽劇『この子がおればこそ』(和泉式部伝説より) | |||||||||||
表紙絵(船岡小知代) | |||||||||||
通路にまで溢れた開演前の様子 | |||||||||||
2010年12月19日(日)、相生市民会館で、音楽劇『この子がおればこそ』が上演されました。立ち見席は勿論、通路まで、溢れるほどの超満員でした。 | |||||||||||
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プロローグ ここは若狭野の雨内。百人一首のおけいこをしている少女、くみの前に突然現れたのは、ここで育てられたという小式部内侍。驚いたくみはおじいさんから聞いた相生に伝わる和泉式部のお話を思い出します。でもどうして小式部が雨内で育てられたのかを知りたくて、二人 は千年の時を越えて平安の都へと・・・・ | |||||||||||
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第1場 ここは京の都、五条にある寺の前。さみしい夕暮時、和泉式部が人目を忍びやってきます。 胸には小さな赤ん坊をしっかりと抱きしめています。実は、夫の構造貞に先立たれ、生きるすべなく赤ん坊を寺に捨てに来たのです。身を裂かれる思いで見ていると一人の旅人がやってきます。それが播磨国若狭野の五郎太夫です。五郎太夫は草の中で泣いている赤ん坊を見つけ、仏様のお導きと若狭野へ連れて帰ることにしました。 | |||||||||||
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第2場 その後和泉式部は中宮上東門院彰子に仕え、そのお供で書写山園教寺へ。書写山を下りた和泉式部は万葉の歌を訪ねるうち、十年前に捨てた我が子がここ播磨国に拾われてきたと聞き若狭野の雨内へとやってきます。突然の雨に村人達と雨宿りをした一本の栗の木。「子供たちがぬれる」と心配し式部が枝に触れると、なんと不思議な事に枝が大きく垂れ、村人たちも雨をしのぐことができたのです。 | |||||||||||
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第3場 日も暮れはじめ今夜の宿にと、子供たちに案内され、五郎太夫の家へ向かった式部は、そこで 綿を摘んでいる娘、染亮と出会い、自分が捨てた子と重ね合せるのでした。五郎太夫は、式部を温かく迎え、こんな山里へどんな訳があって来られたかと聞くうちに、式部の探している娘が、十年前に五郎太夫が都から連れ帰った子、染亮であることがわかり、妻と二人悲しみの淵に沈むのでした。 | |||||||||||
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第4場 式部は、突然都からやって来た美しいお方が、我が母と名乗り出る運命のいたずらに胸がはりさけそうで、村の子供たちと大好きな祭りのけいこをしていても悲しくて泣きくずれてしまいます。 | |||||||||||
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第5場 五郎太夫の家では、産みの親と育ての親、それぞれ甲思いを話し合っていました。そこへ染亮 が帰ってきて、五郎太夫と妻そご−して和泉式部に本当のことを教えてほしいと泣きすがります。 五郎太夫と妻は「この子がおればこそ生きてこられた」と‥・式部は「この子がおればこそ生きてゆける」と‥・五郎太夫は、自分たちのわがままで染充の一生をこの里で終わらせることはできないと自分の気持ちを押し殺して都へ行くよう、強く染亮をつき離すのでした。 | |||||||||||
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第6場 今日は村の秋祭り、村人や子供たちが楽しく、豊作を祝って踊っています。そこへ染売がやって来て、ずっと一緒に暮らそうと子供たちと、歌ったり踊ったり最後の秋祭りを心に刻んでいました。そこへ五郎太夫と妻がやって来て、染売はこの母に思いきり甘えます。しばらくすると和泉式部が染亮を迎えにやって来ます。五郎太夫が村人や子供たちに染亮と今日で別れなければならぬことを話しますが、突然のこと妃子供たちは染売を責めるのでした。村人、子供たちは皆そめの幸せを祈り、染亮が見えなくなるまで見送りました。 | |||||||||||
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