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1685(貞享2)年9月26日発行(第009号)

忠臣蔵新聞

山鹿素行さん(64歳)、江戸にて死去

赤穂での山鹿素行さん

赤穂城跡の山鹿素行銅像

赤穂流罪の決定
8歳の大石良雄さん、スーパースターに面会
『中朝事実』 大石神社の大石良雄さん
 45歳の素行さんは北条氏長邸に呼び出され、そこで赤穂配流の命を受けました。9日にはもう江戸を出て、24日には赤穂に着いています。国家老の大石良重(48歳)(大石良雄の大叔父。祖父良欽の弟)は自分の隣屋敷に素行さんを迎える。良重さんは1日2回自ら肴・茶を運んだという。この時、良雄さん(8歳)も同行したという。11月になると、素行さんの奥さんや子供さんが赤穂に着きました。
 翌年の1667(寛文7)年5月に藩主の浅野長直さん(58歳)自身が素行さん宅を訪れています。
 1669(寛文9)年に『中朝事実』を赤穂で完成しました。

赤穂で書いた『中朝事実』とはどんな本
この本が縁で処分解除の動き
 この本で、山鹿素行さんは、中華思想(中国崇拝)を排斥し、日本主義(日本の朝廷が中心=中朝である)を主張しています。幕府にとっては、この書物で素行さんが考え(素行)を入れ換えたと感じたということです。
 1671(寛文11)年3月に浅野長直さん(62歳)が隠居し、長男の長友さん(29歳)が赤穂藩を相続しました。
 1672(寛文12)年7月に浅野長直さん(63歳)が亡くなり、12月には保科正之さん(62歳)も亡くなりました。素行さんに激怒した正之さんが亡くなった事で、流罪の処分を解除する動きが出てきています。
 1673(延宝元)年4月に赤穂藩主の浅野長友さん(長矩さんの父)も、素行さん宅を訪れています。
 この年、大石良雄さんの父良昭さん(34歳)が療養中の大坂で亡くなりました。病弱でもあり、家老にはならず部屋住みのままでした。良雄さんの祖父良欽さん(56歳)が養父となって、家督を良雄さん(15歳)に譲りその養育に当たりました。
徳川綱吉さん 柳沢吉保さん 浅野長矩さん

江戸に帰った素行さん
 1675(延宝3)年1月に長友さんが33歳の若さで死に、長男の長矩さんがわずか9歳で赤穂藩を相続しました。6月、正之さんが死んだことと『中朝事実』の本を出版したことで、素行さんは許されて江戸に帰ることになりました。7月赤穂を発ち、8月に江戸に着きました。少し遅れて素行さんの奥さんらも江戸に着きました。赤穂滞在は8年9カ月にわたりました。良雄さんはこの時、17歳になっていました。
 1677(延宝5)年1月に大石良雄さんの祖父で養父良欽さん(60歳)が赤穂で亡くなりました。良雄さん(19歳)は祖父の遺産(1500石)相続し、見習い家老となりました。大叔父の良重さん(59歳)(祖父良欽さんの弟)がその後見役となりました。
 1680(延宝8)年5月に4代将軍家綱さんが亡くなり、5代将軍に綱吉さん(35歳)が就任しました。側用人になった柳沢吉保さん(23歳)が文治政治を推進しました。(それまでの文武弓馬の道を改め、特に忠孝礼儀を強調しました)。8月に浅野長矩さん(14歳)は従五位下・内匠頭に任ぜられました。

長矩さん、素行さんより押太鼓を借用
 1681(天和元)年11月に素行さん(60歳)は赤穂藩主の浅野長矩さん(15歳)に押太鼓を貸しています。
 1683(天和3)年3月に長矩さん(17歳)は勅使饗応役を大役を果たました。この時世話をしたのが大石良重さん(65歳)で、指南役は吉良義央さん(43歳)でした。5月に大役を果たしてほっとしたのか、良重さんが亡くなりました。
 1684(貞享元)年8月に浅野長矩さん(18歳)と弟の長広さん(15歳)が素行さん(63歳)の兵法の門弟となりました。
素行さん、黄疸で波乱の一生を終える(64歳)
 1685(貞享2)年8月に素行さんは黄疸病にかかり、9月に亡くなりました。64歳でした。
参考資料
新人物往来社『図録日本史の人物2000』
堀勇雄『山鹿素行』(吉川弘文館の人物叢書)
岩波書店『山鹿素行』(日本思想史体系)
廣山尭道編『播州赤穂の城と町』(雄山閣出版)など
『世界人物逸話大事典』(角川書店)

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