1652年発行(第010号)
| 長直さん、赤穂着任の謎 | ||
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| どうして、浅野長直さんでなければならなかったのか 赤穂の前の殿さん、奥方を殺害処分! | ||
| 赤穂城主池田輝興さんが奥さんを殺害するという事件が起こりました。 当時の記録(『徳川実記』)を見ますと、輝興さんは「この15日に突然に発狂して妻(黒田筑前守長政さんの娘さん)を切り殺し、(略)侍女2人をも切て捨たので、3月20日に所領を没収されて長男の政種二男の政成さんとと共に備前岡山の藩主で輝興さんの長兄池田光政さんにあずけられました」 この長兄の光政さんは閑谷学校を作ったりした名君で、おじいさんの輝政さんは姫路城を築いた人として有名な人です。 | ||
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| 長政さんの赤穂着任に、3つの説あり | ||
| その一つが幕府の事情という説です(『赤穂塩業史』)。 幕府と関東諸領の軍用塩を供給していた下総行徳塩田が地理的条件のために衰退してきたので、食塩確保のために浅野家を赤穂に派遣したというのです。 その二つが武家諸法度違反による左遷説です(『義士魂』第十九号)。 長直さん造った佐白山麓の下屋敷は世間では新城といい、これは幕府が制定した一国一城令に違反しているし、幕府の許可を受けるという武家諸法度にも違反しているという説です。 その三つめが軍事上の拠点という説です(久岳君御伝記)。 幕府は1645年6月13日に、老中阿部重次さん、同阿部忠秋さん、同松平信綱(知恵伊豆で有名な人です)さんの連名で浅野長直さんに宛てて次のような転勤命令書を出しています。 つまり、長直さんの赤穂転勤を命ずる。赤穂は土地柄もよく、その上浅野本家の近くでもある。また、赤穂は5万石としての城が無いから普請をしたければ、幕府の許可を得なさい。 好意的な内容である。 | ||
| 史料 | ||
| 「其方儀播州赤穂江所替被仰付候、然者赤穂之儀所柄能候故、…其上松平安芸守近国之事ニ候間…赤穂之儀唯今迄者屋鋪構計雖有之候、少々城地程之構能所候間、以来普請仕度候者、得上意 可申付旨候事」 | ||
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| お城を造るための転勤か | ||
| 塩の増産が目的ならば、立派の城を造る必要はないというべきか。 平尾孤城さんの言う「姫路岡山の両雄藩が聯携して策謀する」を防ぐという説も根拠が薄い。 池田輝政の孫と浅野長政の孫に対する「幕府の扱いの違い」の根拠が重要である。どのたか、ご意見を! | ||
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| 長直さん、勤務先の大坂より直接赤穂へ(7月) | ||
| その結果「赤穂郡三万五千二百石、 加西郡の内八千九百二十石八斗余、 加東郡之内八千二百一石九斗余、 佐用郡の内千二百十二石二斗、 都合五万三千五百石余、 外に新田及び塩浜五千石計」を与えられました。 |
| 参考資料 八木哲浩監修『赤穂市史第二巻』(赤穂市) 廣山尭道編『播州赤穂の城と町』(雄山閣) 岡田順一『新田の歴史一先人の遺産』 赤穂民俗研究会『赤穂の民俗その六一塩屋編』(赤穂市教育委員会) 廣山尭道編『赤穂塩業史』(赤穂市役所) 松岡秀夫編『ふるさとの思い出写真集一赤穂』(国書刊行会) 赤穂市立歴史博物館編『常設展示図録』(赤穂市立歴史博物館) 太田能寿「浅野長直公転封の動機」(『義士魂』第十九号) |