home back next

窯業遺跡
緑ヶ丘窯址構造図
緑ヶ丘窯址から出土した土器
緑ヶ丘窯址焚口付近
 窯業遺跡というのは普通、須恵器、陶器、瓦を焼成した窯と、その付属施設のことである。
 窯には大きく分けて登り窯と平窯の2種類があり、登り窯には幅1メートルから2メートル、長さ8メートルから12メートル前後のものが多く、水平な床面をもつ燃焼部と、20度から35度程度の傾斜をもつ焼成部からなる。主として須恵器を焼いた古代中世のあな窯(大窯)と近代窯業の開始と共に使用された階段状に窯房を連絡した近世連房式窯とがある。
 このような窯業遺跡は、相生市若狭野を中心とする地域から広い分布をみせている。例えば光明山麓・上松・西後明・東後明・入野・雨内・緑が丘・那波野丸山・那波野平芝・那波野土井・古池などがそれで、古代より江戸時代まで広範囲にしかも大規模に行なわれていたらしく、窯趾群として点在している。これらの窯趾地域の共通する点は、窯の立地や構成する条件と時代、販路などが一致していることである。
 構造上低い丘陵の中腹からやや下った傾斜のあまりない斜面に築かれその上その付近に必ず粘土質土壌・水・薪の得やすい場所であること、ここで焼成された須恵器・陶器・瓦の製作年代が、古墳文化時代後期から奈良時代をへて平安時代後期以後にまたがっていること、さらにこうして大量に、しかも長期にわたって製作された須恵器・陶器・瓦の供給体制がこの地域の枠を越えた、より大きな範囲で、この地域の族長によって行われたと思うことである。
 相生市内の窯址が最も盛んであった時代(6世紀中期以降)は、社会的分業生産の発展期であることから考え、他の地域にない好条件から急激に発展し、あらゆる地域へ供給していたと思われるのである。

home back next