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矢野庄と条里
若狭野町出村付近
矢野庄条里図(明治年間地籍図より構成)
 645年「大化の改新」以後、土地人民の私有地を禁じて公地公民とし、国民ことごとくに口分田を与え、租庸調の賦課を負わせた。
 いわゆる「班田収授の制」は、わが古代国家が初めて法制的基礎の上に立つようになった画期的な改革であった。
 奈良時代になり、この制度は一そう整備された。1町四方を「坪」と名付け、36の坪(6町四方)を「里」と呼び、1里のへだたりを「条」と呼ぶ条里制は、その実施のありさまを具体的に示したもので、小字の呼名に一の坪・二の坪などが今でも残っている。
 中部の平地と北部の山間の平地には、大化時代から開拓が進んでいたらしく条里制の遺制がみられる。
 正安元年の矢野庄例名中分実検読合帳と中分分帳とには、「一条一坪常勝谷、一反三守友」とあり、大半の筆に条と坪と小字とが記されており、条は一条から十七条に及んでいる。
 一条は釜出、才元、森の各部落を含む東西3キロに及ぶ谷間の平地で、第二条とは明らかに川を以って境としていることがわかる。二条とは瓜生部落で、これより南下して3条、4条が二木・下田のあたりにあたる。ついで若狭野町にはいって寺田・八洞の一部が5条で、ここより川を渡って下土井・福井の一部が六条、福井の一部と若狭野部落が七条にあたっている。更に十三条は南に山を負うている雨内・入野の両部落を含む大区域であって、北方は水田川を境として八・九・十条と接していることが明らかとなった。 更に実地に調査して国道以北の地においては、八洞の一部からは出村・福井の部落に亘って北から南に60間ごとに用水路が走り、その間に東西60間ごとに直通する畦畔路が残っている。
 こうしたことから矢野庄においては、すでに大化時代に明らかに条里制が行われていたものであって、他地方におけるものと同じく6町四方の条里坪制がおこなわれていたことが確実となった。

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