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和泉式部と小式部
和泉式部歌碑(得乗寺)
しだれ栗(得乗寺)

式部塚(得乗寺内)
 和泉式部は、一条院の中宮上東門院彰子につかえ紫式部、清少納言らと並び称せられる平安文学の才女で、歌人として有名である。
 この和泉式部の巡歴の伝説は、日本全国におびただしく散在しているがこの地にも次のような伝説がある。 
 和泉式部は、上東門院につかえる前、和泉守橘道貞と結婚して一女小式部を生みおとすころには、道貞はすでになくなっていた。
 和泉式部は、小式部の生育に苦しみ涙をのんで京都のとあるところに捨子をしてしまった。
 この時、後の証抛にと、守本尊を絹に包んでわが子にもたせ、絹の半分は自分が所持していた。
 その捨子を拾って養育したのは、たまたま所用で京へ上っていた播磨国若狭野村の長者五郎左衛門であった。 
 ところが、和泉式部は上東門院につかえて名声が次第に高くなるにつれて、心にかかってやまぬのは、小式部のことであった。どうかしてわが子にめぐり会いたいと切なる思いをいだいていたところ折から企てられたのが上東門院の播磨書写山への参詣であった。 
 参詣を終えて後、式部はひとり小式部の行方をたずねて、いまの若狭野町雨内をさまよっているとき、折からの時雨にあった。
 式部は、とある栗の木にしばしの雨宿りをして一首の歌を詠じたところたちまち栗の枝が傘の形に垂れて、急雨の難をふせいだ。 
 この時の歌は、  
  苔むしろ敷島の道に行きくれて 
     雨のうちにし宿る木のかげ 
 これよりひとびとの口に「宿り木の栗」「雨宿りの栗」といい伝えられるようになった。 
 さて和泉式部は、その日行き暮れて若狭野の里に、五郎左衛門という長者をたのんで一夜の宿をとった。 
 そのとき、五郎左衛門の娘が細い流れで綿摘み揃えているのを見た和泉式部は、自分の捨てた娘の年と同じ年頃の娘であることがなつかしく思えて、「その綿売るか」とたずねると、その少女は、
  秋川の瀬にすむ鮎のはらにこそ  
    うるかといえるわたはありけれ
 と歌で答えたので、
 「あな子女(こめ)がよくよみたり」とほめことばをいうと、娘は、 
   秋鹿のははその柴を折りしきて 
     うみたる子こそこめがとはいえ
 と詠んだ。 
 この即妙の歌に感じ入って、和泉式部がその少女の身の上をたずねてみると、わが子小式部であるらしい。 
 主人のもっている証拠の絹と、和泉式部がもっているものとつなぎあわせてみると、地紋もぴったりと合い、見知っている守本尊もそのままである。 
 これこそ13年前、京の五条に捨てたわが子に間違いない。和泉式部の喜びはたとえようもなく主人の夫婦に小式部を返してほしいと懇願したが、先方夫婦にしても拾いとってからこのかた、年月なれそい、いつくしみ育てた可愛い娘であるから、なかなか承知をしなかった。
  しかし和泉式部の心に打たれ、ついに承知をした。
  めでたく親子を名のりあい都に召しつれて上東門院に宮づかえをさせたといわれている。
   大江山生野の道も遠ければ  まだふみも見ず天の橋立
 は小式部の詠んだ有名な歌である。聰明であった小式部は、容貌も美しく、二条関白教道やその弟の堀河右大臣頼宗などにしたわれていたが、年若くこの世を去ったといわれている。また和泉式部が、小式部を捨てた時、後の証抱に持たせた守本尊は、姫路慈恩寺にあるといわれ、また若狭野の薬師堂の本尊は、守本尊を当村に奉祀したものだといわれている。 
 また捨て子の証拠には、小式部産衣の紐に、
   捨てし子をたれとりあげて育つらむ  捨てぬ情を思いこそすれ
 と、 一首を書きつけていたともいわれている。
  「和泉式部雨宿りの栗」は、昭和10年2月、「天然記念物」として、兵庫県の指定となったもので、現在は那波得乗寺の中庭茶室の前にある栗の老木がそれである。もと雨内村にあったものを後に、赤松円心則村の孫、教祐が那波に浜御殿を造築の際ここに移し植えて、日夜これを愛で親しんだものだといわれている。

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