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播磨国赤穂郡相生浦の打ちこわし
北坂地蔵
天明7年の百姓騒擾の機会にたてられた北坂にある地蔵尊
 相生浦は、現在の相生市のもとをつくった村で、赤穂藩の領所として相生湾に臨む一漁村に過ぎなかったところである。
 天明6年(1786)の夏秋は長雨の後、大洪水となり、諸国の米穀は全くの凶作となった。そのため、翌7年に人ると米価は平常の4〜5倍の高値となった。
 もともと、漁業を生業としていた相生村では、米・雑穀などのような主食は他村より移入によって補っていたのであるが、赤穂藩では米価の高騰に伴い村々に穀留を命じたから、相生村の村民は、早速その日の飯米にも窮することとなった。
 そこで、加里屋奉行に米穀の貸与を申し入れたが貯蔵米の僅少を理由にその申出をとり下げてしまった。がしかし、庄屋、彌八郎は熱心に骨を折り、ついに借米の願いを許された。
 天明7年6月17日の夕方、赤穂から米が届けられたが、それはわずかに10石であったとか。
 そこで早速、粥を炊いて難渋人に与えるとともに再び奉行所へ嘆願することになったが、村内の空気は次第に不穏となり、17日の夜、ついに家潰し騒動へと発展していった。
 この騒動は、17日夜、村内の角谷堤に集った者たちが、村内になだれ込み、同夜より18日の夜明までの間に米小売商の清七以下6軒の家屋・土蔵・納屋を破壊し、器物を打損じた。しかし、庄屋のような村役人のところまでは波及せず、村役人と徒党の間に介在して斡旋につとめた小左衛門のはからいで18日に解散した。
 この騒動は、17日夜、ただちに加里屋奉行、藤田貢外に注進され、18日には、奉行所より奉行以下が来相し、光明寺を評定所として吟味したといわれている。
 このときの検挙は、21日までに21名を捕え、翌22日より一人5合宛の飯米が1990人の村民に対して支給されている。この飯米支給は24日まで続けられた。
 加里屋に連行された21人の吟味は、7月11日に終了し、張本人と目された九助は、7月22日より10月8日までの間、入牢させられ、さらに10月9日未明、赤穂の尾崎川原で死罪となり、相生村の北坂峠(相生市川原町と相生市古池との境にある峠)で獄門にかけられたといわれている。
 この獄門にさらされた故人の供養にと、村人たちが、10月に地蔵尊を建立し、現在も、その死者の冥福を祈っている。
 この事件は、天明7年11月3日に至って、ようやく落着している。

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