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相生村と室津村の境界争論
延宝4年〜同5年に揖西郡室津村より訴訟を起こし揖西郡と赤穂郡とが論争となり、
その結果、境界が定まったことの記載のある海老名文書(那波政良氏蔵)
郡境論争のあった「君島」
 「海老名文書」によると延宝4年(1676)に相生村と室津村との間に境界論争が起ったということが書かれている。
 また、藤江忠廉著の「赤穂郡誌」=宝暦7年刊(1757)にも「公あって北は野瀬村の山より、南は君島の峰を限る。遂に揖西、赤穂の郡境定まる」と記載されている。
 この原因は、相生湾の入口にある「鬘(かつら)島」に、安芸の国の船が漂着、これを室津村側がとり上げたのが始まりだといわれている。
 この論争には、赤穂藩も乗り出して、再確認をさせている。

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