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野瀬村と相生村の境界論争
弘化4年(1847)の野瀬村と相生村との境界論争で決定した
相生村と野瀬村の境界のあったところ
 この記録は、当時(弘化4年=1847)の筆達者な人がこの事件に参加して刻明に記録していたもので、当時の調査の長閑さや、相生村の街路情況がよくわかる貴重なもので、「弘化4丁巳年3月27日正条昼飯也。御本陣付龍野御奉行出張並赤穂元締並びに中屋龍太郎殿当村より出張」云々で始まっているものである。 
 この事件の問題の場所は「赤石」地区で、丸亀・赤穂・龍野の三藩の各立会いで開始、丸亀藩は御座船を出して検分、赤穂・龍野の両藩もおくれてならずと船を利用する。 
 この話し合いは難航し、あるときは道案内をたて野瀬坂を越え、また船で相生湾の東海岸を「君島」まで調査し室津村役人を呼出すということで4月10日となる。この間、「壺網」の見物、鶴亀にある蓬莱石の見学などもあって目出度く結末をつげている。

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