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寺田、八洞雨内村と矢野村下田との水争
 大正2年(1913)8月に、用水のことで下田村から異議がでて、ついに訴訟事件にまで発展したという水争がある。
 「郡役所事績」には次のように当時の様子が明記されている。
 「若狭野村側は、慣行ありと主張し、ついに下田農民は多数集合し之を埋立てり。ここにおいて双方、血の雨を降らさんとせしを警察官、村長等之を制したる。
 この時、若狭野側農民少数なりしため暴力に至らざりしも、慣行の有無に付、水掛論を継続し両村長、警察官其の他の有志之を仲裁せんとせしも、双方之に応ぜず訴訟沙汰となりたり」と書いてある。 
 この調停に赤穂郡長が、双方関係者と話し合い調停案をつくり、双方異議なく円満解決し現在に至っている。

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