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赤穂浅野家の時代
 元禄13年(1700)2月伊勢山田奉行となり若狭野米十石を伊勢大神宮へ奉献したときの証である

 初代長恒は、大石頼母、母は長直の娘であり、長三郎隼人といった。寛文13年(1673) 3月、15才のとき現在の若狭野町(下土井と寺田の半分をのぞく)三千石を分家としてもらった。

 椿叟太夫は伊勢神宮の御師であり、神社に無事息災を祈祷したり、大麻を各地に出張して頒布する仕事をもっていた。
 明治維新で尊王攘夷、討幕で騒いでいたとき、長発は早くから大義名分を分別して、土地、人民をすべて朝廷に奉還したので、朝廷から褒状をもらった。

 7代長発は浅野長知の惣領で天保6年(1835)2月に生まれ、万延元年(1860)9月に家督相続している。 若狭野陣屋に住んでいたが、陣屋は長屋にすぎず、家来2、3人をつれて若狭野三千石を治めていた。


 徳川政権もほぼ安定した寛永8年(1631)、領主、松平政綱が死亡したが、嫡子がなかったため、佐用郡平福より赤穂に松平右近太夫輝興がきて、3万5千石を統治していたが、正保2年(1645)輝興発狂して妻子を殺害したため領地を没収され、残った二子とともに備前本藩領内に蟄居(閉門を命じた上、一室に謹慎)させられた。
 この事件のあった同じ正保2年(1645)に、常州笠間より赤穂藩へ浅野内匠頭長直が、輝興にかわって赤穂・佐用・加西・合わせて5万3千5百34石9斗7升9合、塩田5千石、公儀付高赤穂郡3万2千5百石、村数123戸を統治することとなった。
 赤穂城が城築されたのは慶安元年11月(1648)から寛文元年(1661)の13年間であったらしい。
 寛文11年(1671)長直が病気になり政務がとれなくなったので長友に赤穂五万石を、次子の長賢に加東郡家原3千5百石を、3子の長恒に若狭野3千石をそれぞれ統治せしめていた。そして延宝3年(1675)、浅野内匠頭長矩が三代目を相続した。
 元禄14年(1701)、あの有名な長矩の殿中松の廊下での刃傷事件で赤穂城の明け渡しとなり、浅野家にかわって翌年の元禄15年(1702)、野州烏山より永井伊賀守直敬が移り、これを統治したが、宝永3年(1706)、これにかわって、備中江原城より森和泉守長直が赤穂城主となり、石高2万石を治めることになった。

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