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明治時代の相生
 明治中期頃の那波港(写真)
 明治中期頃の那波港(絵図)
 これより、支配関係は複雑化し、赤穂郡内は赤穂藩森領、尼ケ崎領、天領、安志領、浅野領がそれぞれ交錯していた。
 当時すでに相生市には、那波浦、相生浦の二港があって、那波浦がその主体をなし、農商を主とする廻船や商船が出入し、その数も一日およそ200余艘を数えたといわれる。
 古くから明治初年までは、現在の相生湾を那波湾といい、その入江を那波の入江といっていた。
 明治3年(1870)の藩籍奉還により、翌年7月14日に赤穂藩は赤穂県となり、同年11月2日に姫路県に、さらに同年11月7日に飾磨県に編入された。明治9年(1876)8月21日には兵庫県に合併編入となり、明治12年(1879)には区務所は郡役所と改められ、明治22年(1889)には町村制の施行により、相生村と那波村が設置された。当時、揖保郡室津村に属していた野瀬を相生に編入した。
 明治40年(1907)3月には、資本金50万円で播磨船渠株式会社(現在の石川島播磨重工業株式会社の前身)が創立され、しだいに工業発展の緒を開くこととなった。
 さらに大正2年(1913)1月1日には、相生村が町制を実施、昭和6年、那波村も町制を実施した。
 その後、造船業の盛衰によって町勢もまた栄枯を同じくする傾向が強くなってきた。

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