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藩政当時の相生━漁業・水運
 また漁業や水運に目をむけると、相生浦が特別多くの人口をかかえながら、耕地の少ないのは、自然環境からの制約であり、主たる生業を海に求めたのは当然のことであろう。
 船数をみると、相生浦は77艘中柴舟7艘、漁船70艘であった。相生の漁船に対し、那波浦には7艘、佐方には6艘が所有されていた。
 寛政10年(1798)、記録(相生村と那波村附州出入)の一節に、「相生村者は漁業之村方ニ候得者海中在来通り漁業相渉候」「那波村之儀者延船専産業之村方ニテ御城米其他御米積出延船混雑ニ而繋キ船等之儀之亦右同様」の記事があるが、一応漁業並びに水運の有様を想像する手がかりになろう。
 また天保の頃(1830〜1843)の那波浦入船料次第によると「はたいたぶねは、おけ五十かご代五百文、ともまはりぶねは、おけ三十かご代三百文、おとかこぶねは、おけ十おけ代百文、その下は見合い」とあって、廻船・商船の入津に伴なう収入や商業の発展も考えられる。

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