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古山陽道
道標(矢野二木)

古山陽道と西国街道

 市内を通る主要道で、諸国を結ぶ道として記録に残る最古の道は、竜野市小犬丸から矢野を経て、上郡町高田に入る道である。
 646年、「大化改新詔」によって、改新政府は、政治の方針を明らかにするとともに、中央と諸国を結ぶ街道の整備を行った。
 当時、この山陽道は「大路」とよばれ、都と九州太宰府を結ぶわが国の主要幹道であった。
 律令体制が整備されてきた平安初期、この街道に置かれた駅と、そこにそなえられた駅馬の数が「延喜式」(927年)に記されている。
 「延喜式兵部省、播磨国駅馬明石三十匹加古四十匹草上・太市・布施・高田・野磨各二十匹」とあり、加古は今の加古川、布施は竜野北山、高田は上郡町高田、野磨は上郡町梨ケ原であるといわれ、当時、加古は駅馬四十匹をそなえる日本最大の駅であった。
 駅は表通りの一筋町で、地方の長者を選び任じた駅家の長(駅長)と駅子がいて、中央官吏の往来や荷物の運搬に従った。
 また、駅には田令によって、駅の費用を賄うために駅田がおかれた古代の山陽道は、海岸からやや離れて、中世以降の山陽道より北寄りを西走した。それは、揖保川・千種川などの大河は河口付近では渡河が困難であったため、そこを避けて通過したのであろう。旅人は、鵤の寺、高田の新山寺などの寺院を目標にしながら、小犬丸から矢野に入り、二木、小河を経て椿峠を越し西に向った。
 この古代の山陽道の道すじに沿ったところには、「宿」や駅馬を飼育した跡の「馬場」などの字名が、わずかにその名残りをとどめているにすぎない。

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