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西国街道
那波野一里塚跡 (☆巻末正誤表を参照)

道 標(若狭野町)

茶屋

 中世以降の幹道は、古山陽道より南寄りの竜野正条より那波野・若狭野を通り、有年に向う現在の国道に沿う旧国道であった。
 「播磨鑑」(宝暦12年=1762年)に、「太平記に赤松勢舟坂を先塞き義貞先陣すと言へり。此時まで古道を通る。今の海道も浜道とて其時も有と言ふ。当時竜野領内海道は、東は姫路より山田峠にかかり、鵤・阿曽川・伊保川(揖保川)を渡りて正条・原村・那波野を過ぎ、有年村に至る」とあり、古山陽道の脇道としてその頃存在していたが、戦国時代より徐々に幹道として発達してきたものである。
 さらに、江戸時代になるとこの道は、西国大名参勤交代道として江戸・大阪と西国を結ぶ主要街道となって整えられていったのである。約10キロごとに宿場が置かれ、1里(約4キロ)ごとに一里塚もあり旅人の目あてになった。
 この近辺では、揖保川河畔の正条、千種川河畔の有年に宿場が置かれ、那波野と若狭野町上松に一里塚があった。また、街道に沿って松並木もつくられ、明治末期の頃にはまだ老松がところどころに残っていた。 那波野や若狭野などには、茶店などの休憩所もあったのであろう「茶屋」の地名が残り、当時の街道の名残りをとどめている。

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