若狭野町鶴亀 |
旧街道・鶴亀付近 |
寛政2年(1790)の播磨国旅行案内図表紙(竜野図書館蔵)
寛政2年(1790)の播磨国旅行案内図内容(竜野図書館蔵)
若狭野町鶴亀もまた、徳川三百年の世々、西に東に行き交う貴賎男女の宿場として栄えた。 弘化2年(1845)紀州藩士御徒目付江原沢右衛門等主従8人が、藩命を帯びて長崎へ向った時、若狭野町鶴亀通過の際の日誌の一節がある。 「鶴亀村、人家20余、茶店あり立場なり。村の入口に赤穂道の標石あり、右側に鶴屋千蔵といへる茶店あり、ここに鶴亀石と名付く奇石を所蔵せり。村の名もこれよりの称なりといへり。奇石を一見するに嶋石にて石理自然に鶴亀松竹梅の形をあらはせり。またこの石を蓬莱石とも称すといふ。赤松道庵この石に題せる詩ありといふ。(略)赤穂の焼塩、義士の石摺等この処にて売る。之が中に大石良雄自画像の石摺を求得たり。」 この鶴亀には、明治末期まで「鶴屋」「亀屋」という宿屋が道の両側に残り、道に沿って松並木の名残りをとどめる老松があったが今はその面影をみることはできない。 山陽道は、その後明治になると国道となり、近年自動車交通の急速な発達に伴い、拡張整備され国道2号線としてその使命を果している。 |