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江戸時代の相生の道
江戸中期の相生湾
旧街道・陸付近


那波旧道

道標(陸)


鷹取旧道
 江戸初期の相生付近の地形や道のようすを、当時の絵図(元禄13年那波浦絵図=田中脩治氏蔵)よりみることができる。
 その頃の相生は、陸付近まで湾が深く入りこみ、その湾に面して那波村・陸村・相生村・佐方村などの村落が点在し、5ケ村(池之内村を含む)合計戸数約330戸、人口2300人、牛馬90頭、石高1千4百石余りの農漁村であった。
 現在市の中心部となっている旭付近は、磯際山・双子島・大島・竹島などの島々が海に浮かび、山すそが海岸線であって人家はなく、その海岸線に沿って集落を往来する道がわずかに通じているのみであった。相生から野瀬方面への道は、遠見山の東側を越す山越えの道しか通じていなかったため、往来はおもに小舟によったものと思われる。
 陸から那波、佐方への道は、今も道しるべの残る陸本町付近から、苧谷川を飛び石で渡り、山際を佐方に通じていた。
 鷹取峠より赤穂に通じる道は、江戸初期、赤穂藩が浅野家領地となってから以降のものである。
 「播磨鑑」に、「赤穂海辺より海道昔は周世坂(赤穂高雄〜有年)を越え、百目堤をもとは姫路海道と言う。山崎・木津を経て周世坂に至る。鷹取坂を越えるは、浅野家以後の事なり。」とある。
 元禄14年、赤穂城主浅野長矩江戸城での刃傷事件を急報する早駕籠が、つづら折りに登るこの鷹取坂を越え、一気に赤穂に入った。
 現在この道は、荒れはてた山道として残り、わずかにその名残りを残すのみである。
 その後、鷹取峠を越す道は、明治以後旧道の北側を佐方川沿いに開かれ、近年さらに国道250号線として新しく開通されたのである。

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