明治末期「相生村若連中の伊勢詣り」の江見海治氏の記録から、その当時の旅のようすをうかがうことができる。
若連中明治時代の伊勢詣りについて 江見海治
相生村若連中の組織と青少年の初旅について
若連中を三分して上・南・北に分割する。上を梅若と称し、南を竹若といい、北を松若と称していた。拙者は南竹若に属していた故、竹若連中について述べてみよう。
記
@音松組A佐太郎組ーAB仙造組C長之助組ーBD吉松組E伊太郎組ーCF三吉組G猪之助組H利吉組I捨吉組ーEJ順太郎組ーFK利七郎組L栄治組ーGM好造組ーH
1組の人員は約20人程度であるも多少差はあっても20人前後と思えばよい。数字の番号は上位順番である。私は十番に属していたから、十番の組を中心にして伊勢詣りについて述べてみる。
明治42年3月15日の夕方出発したのである。41年には9番の組が参宮しているからその時分から来年は我々の番であると自負していて、42年1月頃から各人の家を訪問して父兄の承諾を得に廻るのである。全組員の大半訪問諾承を得れば父兄が集会をする事によって本格的に決定するのである。その決定事項を兄連中A組に報告する。A組は六、七、八、九組に出立ちを見送るよう通知する。十組以下の組は自発的に出立ちを見送りに参加する。
順路は南荒神社に参拝し、天満神社に参拝の上、北坂を経て那波野村の国道に出る。一般見送りとは北坂にて別れる。極めて親しい者は那波野村まで見送る人もある。国道に出てからは参宮の組員と指導者のみにて本当の旅の姿になる。夜中じゅう歩き続けて網干港に至る。網干港より船に乗り大阪に至る。大阪泊りで第一夜初の旅情を味わう。翌日大阪を出立ちし徒歩で堺に至り、大寺にて菅笠を買求め、笠の上部に「播赤」と書いて雨合羽等旅仕度を調えて紀三井寺峠へ一路歩行を進め、橋本に至り一泊する。
翌日は高野山である。徒歩はいうまでもない。
この日あたりから留守の父兄は坂迎えについての会合を催すことになる。伊勢参りの帰りを迎える事を坂迎えと称し、村中大騒ぎをする行事である。いよいよ坂迎えを行うと議決すれば直ちにこれを兄連中に報告して行事を依頼する。報告依頼を受けた兄連中は、すぐ参宮している組の上と下にそれぞれ依頼する。例えば九、八、七組及び十一組の四組には長持ちを、十二、十三組には祝樽をかくように依頼し、六組には囃方を頼むことになる。依頼を受けた各組では選手を決めて若連中保有の長持ちを出してけいこに取りかかり、漁業の休みを利用して町中を練り歩いて一生懸命に練習をするのである。(樽担、長持担の風俗は、シャツ白メリヤスの上に「めく」の江戸腹掛け、下は白ネル腰巻、てっこう、脚絆で足袋わらじばき、交代の時はその上に友禅模様の長襦袢を粋に引っ掛ける)
一方伊勢詣りの組は、高野山を下り神路(かむろ)もしくは橋本泊りになる。翌日は吉野山及付近の名所旧蹟を見物して吉野川を渡り下市町に泊り、明くれば多武の峯の談山神社に参拝し、岡寺を経て橿原神宮に参拝し、長谷寺に参り初瀬町で宿泊する。翌日は奈良見物をして奈良泊り、次の日はいよいよ伊勢である。
宇治山田に至り外宮に参拝し、ここで棒につくといって旅館で特別の料理を注文し、二の膳付きの御馳走で伊勢音頭で騒ぐのである。明くれば内宮を参拝した後帰路につくのである。
亀山、柘植を経て草津に出て矢走りに徒歩で行き舟にて瀬田に渡り瀬田で一泊し、翌日は京都である。一泊して京都見物を済ませ、伏見より川舟に乗り夜行し枚方でしばらく休憩。夜の明け方大阪八軒家に上陸。市内見物して大阪泊り、翌日は大阪より一路姫路へ帰り姫路に一泊する。
指導者強力は直ちに相生に帰り、姫路まで帰りし事を報告する。参宮団体は姫路にて花かんざし・菅笠等を買い、土産物の不足分を買い求めて帰宅の準備をする。
いよいよその日は姫路より竜野駅まで帰り、駅前の旅館に落付き旅館にて入浴をし旅のあかを洗い落とし、家から持参した絹物の着物とすっかり着替え正装を整えるのである。
那波野村までは村中の人が迎えに出る。その内で懇意な者は正条まで出迎える者もある。那波野まで出迎えに集まった人数は約五百人程度であった。
これが参宮人員個々に農家から筵を借受け、それぞれ陣を敷き、向う三軒両隣の人々を招待して、親類縁者は申すに及ばず、知己手あたり次第に自分の陣地に引き入れようとして客の争奪合戦で騒がしい事も亦想像以上のものであり、酒盛りを始め弁当を使って気勢を上げている処へ威儀正しく正装をこらした参宮団体が威風堂々颯爽と伊勢音頭を唄って帰って来るのである。そこで始めて迎える人と迎えられる人とが一団となって赤坂を経て陸地区へはいるのである。その行列たるや実に賑やかなものである。陸の角屋本陣で小憩の上、相生さして南下し、籔谷には人家なきため一路松の浦地蔵前まで帰り休憩するのである。
(以下略) 相生市史資料編(第4集) |
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