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港湾(海上交通)
相生港
君島
古代交通図



 相生湾は古くは那波浦とよばれ、外洋に面しない瀬戸内海は、都と九州とを結ぶ重要な交通路であり、天然の避難港の一つであった。
 万葉集に、那波の浦を縄の浦と詠んだ山部赤人と日置少老の歌がある。
  
   縄の浦に塩焼く煙夕されば行き過ぎかねて山にたなびく   日置少老
  
   縄の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島漕ぎたむ舟は釣をすらしも   山部赤人
 
 相生湾の湾口におわんをふせたように浮ぶ蔓島(おわん島)と「金ケ崎」の突端近くに君島の二つの島が浮んでいる。この二つの島は、山部赤人の歌の中の「沖つ島」だろうと思われるが、いま一つ、同じ万葉集にはっきりとこの君島を詠んだ歌がある。
  
   室の浦瀬戸の端なる鳴島(ナキシマ)の磯越す浪にぬれにけるかも   作者不明
 
 この鳴島がつまり君島である。土地の老人たちの間では今でもこの島をナキジマと呼んでいるようで、金ケ崎と君島の間の狭い海峡を潮流が流れこすとき、潮の音が高く「鳴る」ようにびひくとか、すぐ近くに見える室津の沖・中・地の三つの韓(唐:橋本)荷島に対して、たったひとりぽっちの淋しさを「鳴いている」ように聞こえる島だとか言い伝えられている。
 鳴島が君島という名に変わっていったのは、漁師たちが、縁起をかついで「なく」という名を嫌ったからだといわれている。
 これら万葉の歌は、太宰府へ赴任する役人たちの、いずれも旅愁の歌であった。
 瀬戸内海は、都と九州、遠くは唐や朝鮮に往き来する唯一の交通路であって、当時、海上交通が一番能率的であった。といっても、小さい舟でのこと、恐る恐る陸地沿いに櫓の音をきしませながら、尺取虫よろしくの舟旅であった。その上、難波(大阪)と室津の間こそやや整備された港や避難所があったが、室津から西は風のまま浪のまにまにあちらの島かげこちらの入江というふうに舟がかりして不安な一夜の夢を結ぶのである。
 任期を終えて大和へ帰る時はまだしも、不安な旅の中にも歓びがあった。けれども、新しく地方へ転勤を命ぜられた役人たちの歎きとなると大変であった。交通や通信の不便な時代のこと、今別れるともう再び会えるかどうかもわからない。難波出帆にあたって、そこまで送って来た家族たちと別れるのに大の大人たちが泣きながら手を振り合い、赴任を見送ったという。
 そして、難波から西へ舟旅を続けてやがて室津。ここまでは港もかなり整い、警察力も行き届いてまず安心であったが、いよいよ室津を出て那波の浦にさしかかると彼ら旅人たちは、今こそ本当にひとりぽっちになったことをひしひし身に感じるのである。もう大和の山々は見えない。行く手には白波と、名も知らぬ島々ばかり。その上、いつなん時海賊に襲われるかもしれない……。
 那波の浦を詠んだ万葉の旅人たちの歌の中に、このような旅愁の気持ちがこめられていたであろう。
 「本朝文粋」(藤原明衡選)の善相公意見封事にある海上交通における五泊は、東から河尻(尼崎市神崎)・大輪田(神戸市兵庫港)・魚住(明石市)・韓(カラ)(姫路市福泊)・樫生(ムロウ)(御津町室津)の五港のことで、それぞれ一日の行程であって、僧行基が改築したと伝えられる。「ムロの泊」について「播磨風土記新考」は「ムロフの泊は即ち後世の室津、今の室津港なり」と説明し、「杜松(ムロ)の多く生ひたりしあたりしに由れる名ならむ」という一説をあげている。また、万葉地理兵庫篇では、室の浦を相生湾の西の岬の金ケ崎、さらにその西に連なる坂越湾にかけての一帯をさしているようである。
 那波浦について、村上氏「播磨風土記」は、「息長帯比売命(神功皇后)麻布山より筑紫に行啓し給う時、御船を寄せて兵船を集め給い、兵站部を置きて兵糧を積取られたる要港なりという」とある。
 このように、相生湾は奥深く入りこんだ天然の良港として、古来より海上交通の要港となっていたのである。

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