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江戸時代の那波浦港
 戦国の時代になると、海が今まで以上に交通の要衝となり、那波浦は港として徐々に様相をかえつつあった。天下が治まると、池田家、浅野家、永井家、森家などの治めるところとなり、この間港は後背地をひかえて商港として発展し、江戸中期には農商を主とする回船の出入りが一日二百艘余りを数えたと伝えられている。
 また、湾は江戸中期の元禄14年の文書(相生村の庄屋から石原新左衛門氏に出した文書)によると、当村の「かまど」215軒の内1軒が「つぼね」、2軒が「ちひろ」という新開場に定住をはじめ、ついで宝暦10年赤穂藩に願い出て鰯浜に人家7軒を差出した海老名文書の記録など、商業色彩の濃い那波と漁港としての相生を中心に、沿岸に漁業群落が生まれてきた。

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