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1681(天和元)年11月3日発行(第018号)

忠臣蔵新聞

「君の讎(あだ)を奉ずる事、
是れ勇士の節に死する大義也」

この教えが、討ち入りのバックボーン

『聖教要録』
この教えが、討ち入りのバックボーン
 『山鹿語録』(1665年)には「君の讎(あだ)を奉ずる事、是れ勇士の節に死する大義也」とある。


ワープどこでも取材班
素行さんの弟子で討ち入りした人はいない!?
 堀勇雄さんは、『山鹿素行』という本の中で、「四十七士のうち、素行に学んだとの確証のある者
は一人もいない」「浅野長矩は…幕府によって処罰されたのであり、素行の考え方からすれば幕
府の命令は天子の命令と同様に従うべきもので、…しかも彼らの復讐の計画は公儀の免許を得
ず、徒党を組み飛び道具(弓)を以て押入るのであるから、素行の思想からすれば幕命に叛く許
すべからざる暴挙である」「『山鹿語類』に「君の讎(あだ)を奉ずる事、是れ勇士の節に死する大
義也」と説かれているが…「次に復仇の事、必ず時の奉行所に至りて、其父兄の殺さるるゆゑんを
演説して、而して其の命をうく。是れ古来の法也(「全集」)」をあげ、素行さんの思想を正しく理解
すれば、討入りはしないと述べています。
素行さんは仇討ちを予言していた!?
 一方、東条琴台さんは『先哲叢談後編』で、次のような素行さんの逸話を紹介しています。「素行
は、赤穂侯長友に、死をもって旧恩に報いたいが、太平の世にはその機会もないと歎き、次のよう
に言って侯を喜ばせた。すなわち、自分は侯の諸臣に儒学と兵法を教えたが、皆見事に会得して
くれた。従って、もし人倫の道にはずれた異変がおこれば、必ずや君の命に従い、命がけで事に
当たるだとう、と。はたして五十年後、その子長矩が死を賜ると、遺臣四十七名、吉良邸を襲撃し、
長矩の志に殉ずるという赤穂義士の仇討が起こった」。
 ワープどこでも取材班としても、色々調査した結果、やはり素行さんの思想的影響力は直接・間
接にあったと感じました。
 (1)大高源五さんがお母さん宛の遺書に「私たちは義のために決起する」と書いています。
 (2)早水籐左右衛門さんもお兄さん宛の遺書に「身を捨て、亡君の志を継ぐのが義である」と書
いています。
 「義」こそが幕府の文治政治が求めたものであり、素行さんの中心課題です。

追記
 先日(2004年7月17日)、大学3回生の女子学生2人が来訪しました。この時、次の話になりま
した。「中学生か高校生の時、時の権力者、今なら総理大臣と対立して家の近くに左遷されてきた
人がいたら、どうするか」。2人の若者は、即座に「見に行く」と答えました。堀勇雄さんが「討ち入り
した者で、山鹿素行の弟子はいない」と断言するが、その影響力は否定できない。そのことをこの
現代の若者が証明してくれました。
参考文献
堀勇雄『山鹿素行』(吉川弘文館の人物叢書)
岩波書店『山鹿素行』(日本思想史体系)
廣山尭道編『播州赤穂の城と町』(雄山閣出版)など
『世界人物逸話大事典』(角川書店)
新人物往来社『図録日本史の人物2000』

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