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1685(貞享2)年9月26日発行(第021号)

忠臣蔵新聞

山鹿素行さん、江戸に帰る

長矩さん、素行さんより押太鼓を借用

徳川綱吉さん 柳沢吉保さん 浅野長矩さん
1675(延宝3)年1月
浅野長矩さん(9歳)が赤穂藩を相続
 1675(延宝3)年1月に長友さんが33歳の若さで死に、長男の長矩さんがわずか9歳で赤穂藩を相続しました。6月、正之さんが死んだことと『中朝事実』の本を出版したことで、素行さんは許されて江戸に帰ることになりました。7月赤穂を発ち、8月に江戸に着きました。少し遅れて素行さんの奥さんらも江戸に着きました。赤穂滞在は8年9カ月にわたりました。内蔵助さんはこの時、17歳になっていました。
 1677(延宝5)年1月に大石内蔵助さんの祖父で養父良欽さん(60歳)が赤穂で亡くなりました。内蔵助さん(19歳)は祖父の遺産(1500石)相続し、見習い家老となりました。大叔父の良重さん(59歳)(祖父良欽さんの弟)がその後見役となりました。
1680(延宝8)年
徳川綱吉(35歳)さんが5代将軍に
 1680(延宝8)年5月に4代将軍家綱さんが亡くなり、5代将軍に綱吉さん(35歳)が就任しました。側用人になった柳沢吉保さん(23歳)が文治政治を推進しました。(それまでの文武弓馬の道を改め、特に忠孝礼儀を強調しました)。8月に浅野長矩さん(14歳)は従五位下・内匠頭に任ぜられました。
1681(天和元)年
長矩さん、素行さんより押太鼓を借用
 1681(天和元)年11月に素行さん(60歳)は赤穂藩主の浅野長矩さん(15歳)に押太鼓を貸しています。
 1683(天和3)年3月に長矩さん(17歳)は勅使饗応役を大役を果たました。この時世話をしたのが大石良重さん(65歳)で、指南役は吉良義央さん(43歳)でした。5月に大役を果たしてほっとしたのか、良重さんが亡くなりました。
 1684(貞享元)年8月に浅野長矩さん(18歳)と弟の長広さん(15歳)が素行さん(63歳)の兵法の門弟となりました。
1685(貞享2)年
素行さん、黄疸で波乱の一生を終える(64歳)
 1685(貞享2)年8月に素行さんは黄疸病にかかり、9月に亡くなりました。64歳でした。
参考資料
新人物往来社『図録日本史の人物2000』
堀勇雄『山鹿素行』(吉川弘文館の人物叢書)
岩波書店『山鹿素行』(日本思想史体系)
廣山尭道編『播州赤穂の城と町』(雄山閣出版)など
『世界人物逸話大事典』(角川書店)

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