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1702年3月14日発行夕刊(第050号)

忠臣蔵新聞

幕府は片落ち裁定を発表

刃傷事件は喧嘩と裁定していながら
内匠頭は場所柄をわきまえず不届により切腹
上野介は場所柄をわきまえ手向かいせず神妙

老中による幕臣会議(角石氏模写)
幕府の正式処分状を検証
(1)「内匠頭さんは、場所を弁えず、個人的恨みで刃傷、よって切腹」
(2)「上野介さんは、場所を弁え、手向かいせず神妙、養生せよ」
 残らず出てきて、若年寄の加藤越中守さんと稲垣対馬守さんがお逢いになり、次のような決定をしました。
 「浅野内匠頭儀は、先刻、場所柄も弁えず、自分の宿意(個人的な恨み)を以って、吉良上野介に刃傷に及んだことは不届である。そこで、田村建顕にお預け、その身(内匠頭)は切腹を仰せ付けられた。
 上野介儀は、場所を弁え、手向かいしなかったことは、非常に神妙である。医師の吉田意安に服薬を仰せ付けられ、外科は粟崎道有に仰せ付けられました。随分大切の保養するようにせよ。以上に付き、高家同役衆が付き添って、自由に家に帰ってよろしいと仰せ渡されました」

史料
 之外不残可罷出、若年寄加藤越中守(明英)殿・稲垣対馬守(重富)殿御逢有之、浅野内匠頭儀先刻御場所柄も不弁自分宿意ヲ以吉良上野介江及刃傷候段不届ニ付田村左(右)京太夫(建顕)江御預其身は切腹被 仰付、
 上野介儀御場所ヲ弁不致手向神妙之至御医師吉田意安服薬被 仰付、外科は粟崎道有被 仰付随分大切ニ保養可致候、右ニ付高家同役差添勝手次第退出可致之旨被 仰渡候(略)

侍医栗崎道有には公傷から私傷と方針を変更した老中が
どうして、喧嘩両成敗とせず、片落ち裁定となったのか
この裏に何かがある?老中と柳沢さんとの対立か?
出展
「多門伝八郎覚書」(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』)
凡例
文字−原史料を抹消している箇所

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