home back next

1701(元禄14)年3月29日発行(第094号)

忠臣蔵新聞

内蔵助さんの存念
嘆願書にし受城目付へ

(公的制裁を主張)

赤穂城本丸(赤穂市立歴史博物館蔵) 大石内蔵助さん(大石神社)
3月29日(赤穂支局発)
内蔵助さんの秘策をさぐる
幕府の目付が来る前に、目付に直訴
 家老の内蔵助さんの秘書は次のように説明しました。
 「今日の会議で歎願書を受城目付荒木十左衛門さんらに提出することが決まりました。
 内蔵助さんが書いた内容は次の通りです。

内蔵助さんの手紙の内容とその意図
(1)上野介さんが死んだので、内匠頭が切腹と思っていた
(2)上野介さんが無事だと知り、浅野家臣は嘆いている
(3)上野介さんの処分でなく、納得する「筋」を立てて欲しい
(4)来穂されてからでは、城に受け取りに支障が出よう
 多川九左衛門さんと月岡治右衛門さんの口上は次の通りです。
 「相手の上野介様がお亡くなりになったので、内匠頭が切腹を命じられたと思っていたところ、次いで来たお沙汰(さばき)を見た所、上野介様がお亡くなりになっていないということがわかりました。
 浅野家の家臣どもは、無骨(無作法)な者でもで、一筋に主人1人を考え、幕府の法式(きまり)を知りません。相手方の上野介様が恙ない(無事である)ということを知り、その上で城地離散することを嘆いております。
 年寄ども先頭に立つ者どもが、今後を教訓(教えさと)しても、無骨な者でもは、安心致しません。この上は、年寄どもが了簡(思いをめぐらすこと)を以って、申し宥(なだ)めることは難しいので、憚りを顧みず、申し上げる儀は、次の通りです。
 上野介様へお仕置(処分)をお願いしているのではありません。
 ご両所様(目付の荒木さんと榊原さん)お二人の働きで、家中の者が納得ゆくように「筋」をお立て下さればありがたく思います。
 赤穂に来られてから、書状を差し出しては、城のお受け取りに支障がおこると思いましたので、ここにお手紙を出します」
史料
 多川九左衛門・月岡治右衛門の口上
 相手上野介様御卒去之上内匠切腹被 仰付儀と奉存罷有候処、追而御沙汰承候処上野介様御卒去無之段承知仕候、
 家中之侍共は無骨之者共一筋ニ主人壱人を存知御法式之儀不存相手方無恙段承之城地離散仕候儀を歎申候、
 年寄共頭立候者共末々を教訓仕候而も無骨者共安心不仕候、此上年寄共了簡を以難申宥候間、不顧憚申上候儀
 上野介様へ御仕置奉願と申儀ニ而は無御座候、御両所様之以御働家中納得可仕筋御立被下候は難有可奉存候、
 当表御上着之上言上仕候而は城御請取被成候滞ニも罷成候処、如何奉存只今言上仕候、以上
               浅野内匠頭家来
                        大石内蔵助
 三月廿九日
   荒木十左衛門様
   榊原采女様」(「戸田家御用留」)

多川さんら、行き違いで幕府目付に会えず
多川さんら、やむなく、内匠頭さんの親戚に書状を渡す
これが内蔵助さんを危機に陥れることに
 そして物頭の多川九左衛門さんらを江戸に派遣しました。このとき内蔵助さんは多川さんらに「江戸
家老や浅野親族には絶対見せてはならない」と念を押しました。
 しかし、多川さんらが江戸に着いた時は、江戸幕府の荒木十左衛門さんらは、すでに江戸を出発していいました。
 困った多川さんらは、内蔵助さんとの約束を破り、浅野内匠頭さんの親戚にこの書状を見せてしまったのです。そのために、この書状が残っています。
参考
「赤穂城引渡御用状」(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』)

index home back next