home back next

元禄15(1702)年7月28日(第149号)

忠臣蔵新聞

分裂寸前、討入りを決定した
円山会議

@公約の破棄は、幕府による
喧嘩両成敗が否定されたこと
A残された選択は私的制裁という
喧嘩両成敗という道

重阿弥(今は左阿弥のみ現存) 安養寺(塔頭の一つが重阿弥)
1702年7月24日
 吉田忠左衛門さんから「浅野大学殿が浅野本家にお預け」という手紙が内蔵助さんに届く。
     7月25日
 江戸に同志を連れて帰り支度をしていた安兵衛さんの所に江戸の奥田孫太夫さんからの手紙(大学お預け)が届く。
 安兵衛さんは内蔵助さんを訪ね、上方の同志の召集を決定する。
     7月28日
 大石内蔵助さんは辰の刻(午前8時)に京都・大坂・伏見・山科の同志を京都円山の重阿弥に召集する(円山会議)。 
 出席者は京都・伏見・大坂などの19人である。大石父子、原惣右衛門さん、堀部安兵衛さん、小野寺十内さんと幸右衛門さん父子、間瀬久太夫さんと孫九郎さん父子、潮田又之丞さん、大高源五さん、武林唯七さん、中村勘助、貝賀弥左衛門さん父子、大石孫四郎さん、不破数右衛門さん、矢頭右衛門七さん、岡本次郎左衛門さん、大石瀬左衛門さん、それに三村次郎左衛門さん。
 かつて一党の最高幹部だった進藤源四郎さんや小山源五右衛門さんは顔を見せなかった。 

index home back next