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元禄15(1702)年7月25日(第148号)

忠臣蔵新聞

内蔵助さんは妻りくさんに
「因果のめぐりあい」と離縁状

切腹前(1703年)の親類書に妻の名を記入
息子主税さんは「父 大石内蔵助
 母親 源五兵衛方に罷在候」と書く

内蔵助さんの石束源五兵衛さん宛て書状
(「りくを返す」)
顕彰碑
(りくさんが実家豊岡に向かう)
1702年7月25日
 大石内蔵助さんは妻りくさんの父(石束源五兵衛さん)宛に「主税と共に仕度しだい江戸へ下る」という手紙を出しています。この手紙の出し方を見ると、浅野家再興が成らずと知った内蔵助さんは、すぐさま吉良邸に討ち入りを決意していることになります。
 7月25日に内蔵助さんは妻のりくさんに手紙を出しています。その要旨は次の通りです。
 「19日付けの手紙が届き、拝見いたしました。産後の肥立ちも無事とのこと、子供の名前は大三郎とのこと、可愛いとのこと、是非会いたいものだ。
 八坂の祇園踊りがあるというので、私も主税も行ってきました。…伏見の踊りも見てきました。素晴らしくびっくりしました。あなたにも見せたかったのに、それも叶わず気の毒に思っております」(「そもしとのへみせ申度…きのとくのみにて候」) 
 元禄16(1703)年1月に大石内蔵助さんが細川家に出した親類書
には
実父 三十一年以前九月病死 大石権内良昭
 実母 十二年以前三月病死   池田出羽娘
 嫡子                 大石主税

とあって、妻りくさんの名は記されていません。
 他方、息子の主税さんが出した親類書には
父 浅野内匠頭家来 大石内蔵助
 母 親源五兵衛方に罷在候   
  
とあって、母りくさんのことが記されています。
 内蔵助さんは浅野家再興ならずとの手紙を受け取ったのが7月24日、翌日の7月25日には、法律的に家族の縁を切る決意を固めていたと思われます。つまり、浅野家の再興がならずと決まってからすぐ討ち入りの決意をしたということです。
 この早さは尋常ではありません。つまり、内蔵助さんの頭には再興と不再興両方に対応できる柔軟な考えがあったと思われます。

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