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元禄15(1702)年8月13日発行(第151号)

忠臣蔵新聞

大事の前に同志を淘汰

血判を返却して、真意を探る

神文判形(赤穂奥藤家所蔵) 奥野将監屋敷(加西市)
8月5日(京都支局発)

内蔵助さんの親戚が討ち入り派を非難
同志に動揺がおこる


  この頃、進藤源四郎俊式さんは「堀部安兵衛さんらは討ち入りを急いで失敗し、浅野家の名誉を落としてしまう」と触れ歩きました。 
 源四郎さんは四百石取りで、大石内蔵助さんの二女ルリさんを養女としており、大石家とは親戚です。内蔵助さんに山科の土地を世話したのも源四郎さんでした。二文字屋の娘のお軽さんを側女として内蔵助さんに世話したのも源四郎さんでした。
 そんな源四郎さんが討ち入りを急いで浅野家の名誉を傷つけると言ったんですから、同志に大きな動揺がおこりました。

 大石内蔵助さんは同志の動揺を見て、討ち入りに向け同志を淘汰することを決心をしました。
 そのため大高源五さんと貝賀弥左衛門さんに口頭での文言を教え、京都や大坂、それに赤穂などの同志に開城の時集めた神文判形を返させました。
  その文言とは「大学さんが広島本家にお預けとなったので、以前申し合わせていたことは取りやめ、神文判形はお返しする」というものです。

判形を返す意味を聞かれたら、
「討入り噂が多く、大勢で討ち入れば罪になる」答えよ

判形を返す意味を尋ねられたら、詳しいことは分からない。ただ世間の噂が多く、ことに大勢で討ち入れば罪にある。まずは討ち入りを中止するしかない。討ち入りの時期を待つか、今後の生活を大事にするかは各々で判断して欲しい」(「世間風説夥びただ布き殊に連判大勢催しの義を、御科に成るべき…一物は止め申し外はこれ無く候」
 この結果、判形を受け取らなかった者は50人余となる。『江赤見聞記』には8月までの同志は120人余と書かれているから、約70人が脱落したことになります。
 内蔵助さんのこのやり方については、「人間を試している」などと色々な意見があります。しかし、突如勤務先がなくなり、失業という異常な事態に書いた判形と、情勢が変化し、ある程度冷却期間をおいた状態での判形とでは意味が違う。その辺を冷静に読んで、討ち入りという身命を懸ける覚悟や、討ち入り後の家族に累が及ぶという現実がつきつけられたとき、やはり苛酷な状況に耐える同志を再結集するということは理に叶っていると言える。

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