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元禄15(1702)年8月13日発行(第152号)

忠臣蔵新聞

一族は内蔵助さんの江戸下向を阻止

浅野一族への遠慮から

石束毎公 りく
池田由成 くま 良金 (主税)
━━━━ 良雄 くう
良昭 専貞 吉千代
小山孫六 源右衛門 良房
大石良信 良勝 大石良欽 小山
源五右衛門
覚運
覚運 (大西坊)
(近藤源八室) るり
(進藤源四郎室) 良恭
良重 長恒 (美濃守) 良尚
長武
信云 良総無人 良麿
良穀三平
信澄 孫四郎
瀬左衛門
奥野将監
小山源五右衛門さんの系図 / 大石内蔵助さんの系図
大石家系図(一族で脱盟した小山源五右衛門さん、進藤源四郎さん、奥野将監さんの名が見える)

8月6日京都支局発)
 大石内蔵助さんは江戸下向を希望していた元赤穂藩の医者寺井玄渓さんに「思いとどまるよう」説得している。これは誰でも同志に入れるのでなく、討ち入り後の生き証人として生きる道を説いたとも考えられる。

内蔵助さんは一族に江戸下向を
阻止され、出発を延期

 一方、内蔵助さんは一族の進藤源四郎さん、小山源五左衛門さん、奥野将監さんらに「時期を見合わすように」と言われ、江戸下向を阻止されます。内蔵助さんは逆に彼等を納得させるため出発を延期しています。
 小山源五左衛門さんは三百石取りで、近藤源八さんの奥さんの兄です。だから内蔵助さんの叔父さんに当たる人です。
 奥野将監さんは組頭で、千石取りです。内蔵助さんとは親戚で、母奈津さんが大石八郎兵衛信云さんの娘で大石無人さんの妹である。城明け渡しの時は、家老の大野九郎兵衛さんが逐電したので、内蔵助さんを支えた人です。
 内蔵助さんには親戚で、重役ばかりです。身内に理解者がいないということは内蔵助さん自身に問題があるのか、重役であるという立場は保身だけでなく本家などのことも考慮したのだろうか。失う者のない軽輩とは違う行動・思考様式をを持っていた。
 それにしても、リーダーとして他の者に格好がつかないという点で辛かっただろうということは容易に想像できる。
8月13日(京都支局発)

大学さんが京都伏見に到着
内蔵助さんらの出迎えなし


 浅野大学さんが伏見に着きました。
 広島本家の進藤八郎右衛門俊重さん(進藤源四郎さんの伯父)が臨時船奉行として迎えました。源四郎さんの背後には本家の意向を汲んだ俊重さんいたことが確認できます。つまり、源四郎さんは広島本家の意向を尊重するという現実的な選択をしたと言えます。
 内蔵助さんら討ち入りを覚悟している同志は大学さんを出迎えませんでした。広島の浅野本家に気兼ねしてのことでしょうか。

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