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元禄15(1702)年7月29日(第154号)

忠臣蔵新聞

円山会議前後の状況
内蔵助さんの行動から判断

討ち入り決定は人生の厳しい選択を迫る

苦悩する内蔵助さん 円山会議をした重阿弥
(写真は現存する左阿弥)
7月29日(京都支局発)

「浅野家再興ならず」の報が内蔵助さんに届く
即座に勘平さんを江戸に派遣

 7月24日に江戸の吉田忠左衛門さんからの「大学さんによる浅野家再興成らず」の手紙が京都の大石内蔵助さんの所に届きました。内蔵助さんは即座に横川勘平さんを江戸に帰しています。勘平さんは刃傷事件の時は江戸に在府しており、開城後は江戸に戻っていた。当時36歳で分別もあるが、5両3人扶持では堀部安兵衛さんら過激派を抑えることができない。ともかく忠左衛門さんとのパイプ役に派遣されと考えられる。それにしても内蔵助さんの脳裏に浮かんだのは、討ち入りに際して軽率な行動を慎むことと、江戸での討ち入り同志の再結集ということであった。

翌日内蔵助さん、妻の実家に手紙
討ち入りをほのめかす

 翌25日に内蔵助さんは妻りくさんの実家である豊岡の石束源五兵衛さんに「息子の主税と一緒に江戸に出る」と手紙を送っています。これは内蔵助さんがいくつかの結果を予想していて、予想の一つに「浅野家の再興がならない場合は吉良邸に討ち入る」も入っていたということを示しています。

討ち入り決定
厳しい選択を迫られる

 28日には京都円山の料亭重阿弥で吉良邸に討ち入る決定がなされました。この席には江戸の過激派安兵衛さんも出席しました。ここに出席して討ち入りに参加しなかった者が二人います。一人は討ち入り組の大石瀬左衛門さん(150石)の兄孫四郎さん(300石)と、もう一人が岡本次郎左衛門さんです。逆に今まで重要な役割を果たしていた二人が顔を見せませんでした。一人は進藤源四郎さん(400石)です。源四郎さんの奥さんが内蔵助さんの叔母さんであり、内蔵助さんに山科の土地を世話したのも源四郎さんでした。もう一人は小山源五右衛門さん(300石)です。内蔵助さんの叔父さんにあたります。結局内蔵助さんの親戚で討ち入りに参加したのは息子の主税さんと瀬左衛門さんだけになります。内蔵助さんの心中はどのようなものだったのでしょ
うか。

石束毎公 りく
池田由成 くま 良金 (主税)
━━━━ 良雄 くう
良昭 専貞 吉千代
小山孫六 源右衛門 良房
大石良信 良勝 大石良欽 小山
源五右衛門
覚運
覚運 (大西坊)
(近藤源八室) るり
(進藤源四郎室) 良恭
良重 長恒 (美濃守) 良尚
長武
信云 良総無人 良麿
良穀三平
信澄 孫四郎
瀬左衛門
奥野将監
大石内蔵助さんの系図
大石家系図(が討ち入り参加者、が協力者、が脱盟者)

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