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元禄15(1702)年9月5日(第159号)

忠臣蔵新聞

仇討ちと武士道(2)

素行さんの教えを昇華した大高源五さん

大高源五さん 山鹿素行さん
元禄15(1702)年9月5日
 大高源五さんは、江戸へ出発する時、母に暇乞い状を送りました。
 長文ですが、名文ですので、最後まで、お読み下さい。
 当時の武士、仇討ちを控えた武士の、主君への忠義、両親への孝養が赤裸々につづられています。
大高源五さんの「暇乞い状」
「忠のために命を捨て名をあらわしたい」
「忠のために父母が命を失うことも義」

江戸に下る存念は
(1)殿様の憤りを散じ、浅野家の御恥辱を漱(そそ)ぎたい一心
(2)侍の道を立て、忠のために命を捨て、先祖の名を現すため
 私こと、この度、江戸へ下る存念(いつも考えていたこと)は、以前からお話した通り、一すじに殿様の憤りを散じ、浅野家の御恥辱を漱(そそ)ぎ(除き去り)たい一心です。かつは、侍の道をも立て、忠のために命を捨て、先祖の名をも現し(明らかにし)たいからです。
史料(1)
 覚
 一 私事今度江戸へくたり申候そんねんかねても御ものかたり申上候とをり一すしに との様御いきとをりをさんしたてまつり 御家の御ちしよくをすゝき申たく一筋にて御さ候、かつハ侍の道をもたて忠のため命をすてせんその名をもあらハし申にて御座候

主君の無念さとは
(1)命を捨て、御家を忘れ、鬱憤相手を打ち損じ
(2)その上、惨めな一生を遂げる
(3)少しの間も、安らかな心になれない
 誠に大切なお命をお捨てになり、忘れ難いお家(浅野家)をも忘れられて、鬱憤を遂げようとお考えになられた相手(吉良上野介さん)を討ち損じ、その上に、あさましい(みじめでなさけない)御生涯(一生)を遂げられたこと、ご運も尽きられたとは言いながら、まったく無念だったと思います。恐れながらも、その時のご心底(心の奥底)を推察いたしますと、骨髄にまで通って、一日、少しの間も、安らかな心になれません。
史料(2)
 誠ニ大せつなる御身をすてさせられワすれかたき御家をも思召はなたれ候て御うつふんとけられ候ハんと思召つめられ候相手を御うちそんじ、あまつさへあさましき御しやうがいとけられ候たん御うんのつきられ候とハ申なから無念至極、おそれなからその時の御心ていおしはかり奉り候ヘハこつすいニとをり候て一日かたときもやすきこゝろ無御座候

(1)主君は短慮で、時間や場所を弁えず
(2)ご迷惑をお掛けしたので、処分を命じられた
(3)赤穂城を異議なく返したのは、天下に異議ない証拠
 しかしながら、お短慮(気が短く、怒りやすい)で、勅答の時といい、殿中という場所といい、大変なおん不調法(迷惑)なので、天下のお憤りは深く、お仕置き(処分)を命じられたことですので、(こういうことになったのも、私たちの)力が及ばなかったことです。まったく天下に対して、お恨み申し上げようもないので、赤穂城は子細(異議)なく差し上げましたことにございます。これは、天下に対して異議を思っていいないからでございす。
史料(3)
 されとも御たんりよ(短慮)にて時節と申所と申ひとかたならぬ御ふてうほう(不調法)ゆへ天下の御いきとをりふかく御しをきに(被脱)仰付候事ニ御座候ヘハ、ちからおよひ申さぬ事まつたく天下へ御恨可申上様無御座義にて候ゆヘ、御城ハしさいなくさしあけ申たる事ニ御座候、是天下へたいし奉り候ていき(異儀)をそんし奉り申さぬゆへにて御座候

(1)殿様は乱心でなく、上野介殿に意趣あって切り付けた
(2)その仇を安穏にしておいては武士道ではない
(3)討入りを待ったのは、浅野家存続のため
(4)大学様が本家にお預け、見合わせることは臆病者
 しかし、殿様はご乱心でもなく、上野介殿へお意趣(はらすべき恨み)があったとのことで、お切り付けなられたことなので、その人(吉良上野介殿)はまさしく仇(かたき)です。主人が命を捨てられるほどのお憤りを持たれた仇を安穏(平穏無事)に、そのままにしておくことは、昔より中国でも日本でも共に武士の道にないことです。
 そういう訳で、さっそく仇の方へ取りかけ(討ち入り)すべきところ、大学様がご閉門中でしたから、お許しが出る時に、もしや殿様のあとを少しでも相続することが認められ、上野介殿の方へも何とかおとがめもあって、大学様の外聞(世間に対する体裁)もよく、世間への聞こえもよく、大名たちとの交際もできるようになるならば、殿様こそ前の通りであっても、お家は残ることになります。
 そうなれば、われわれは出家して僧となり、または自害いたしましても、憤りは静めようと、この節までくやしい月日を送ってきました所に、その甲斐もなく、大学様は安芸国(広島浅野本家)へ移されました。閉門お許しというのは名ばかりでございます。
 もっとも、年月が過ぎれば何とか世間に出させてもらえることもあるでしょうか。仮にそうなるとしても、この節にて、殿様のお跡は絶えたことになるので、この上前後を見合わせることは臆病者のする所、武士の本意でない事になります。
史料(4)
 併殿様御らんしん(乱心)とも無御座上野介殿へ御いしゆ(意趣)御さ候由にて御切つけ被成たる事にて候へハ、其人ハまさしくかたきにて候、主人の命をすてられ候程の御いきとをり御座候かたきをあんおんにさしおき可申様むかしよりもろこし・我てう(朝)ともに武士の道にあらぬ事にて候、
 それゆへさつそくかたきの方へとりかけ可申ところ、大かく様御へいもん(閉門)にて候へは御めん被成候時分、もしや 殿様御あと少にても被仰付上野介殿方へも何とそ品もつきて大学様くわいふん(外聞)よく世間もあそハし候様ニも罷成候ハヽ との様こそ右之通ニ候とも御家は残申事にて候、
 しかれハわれらは出家しやもん(沙門)と成り、またハ自がい仕候而もいきとをりハやすめ候ハんと此節まて口おしき月日をもおくり候所に、そのかいなく安芸国へ御座被成候、へいもん御ゆるしと申名斗にて御座候、
 もつともとし月過候ハヽ何とそ御世に出させられ候事も御座有べく候ハんか、よし左様ニ御座候とても、此節にてとの様御あとハたへ申たる事ニ御座候ヘハ、此上前後を見合申はおく病の仕ル所、武士の本意ならぬ事にて御座候

(1)大学様処分後も、再興がなければ討入りを相談する衆もいる
(2)吉良方へ討ち入るのは、天下を恨むに等しい
(3)ただただ殿様のお憤りを晴らすだけである
(4)武士の道を立て、主君の仇を果たすが、天下には恨みはない
 (浅野大学様が浅野本家にお預けと決定した後)さらに天下へ御訴訟(訴え)を申し上げ、何とぞ相手方へお手当て(処分)も下り、大学様にも世間広くお取り立てくださるよう、一命にかけてお嘆き申し上げ、どうしても、お取り上げがなければ、その時相手方へ取りかけ(討ち入り)すべきだと、しきりに相談する衆もいます。
 もっとも一応の理屈はあるようではありますが、中々そのような徒党ごときことをするべき道理とは思いません。その上、お願い申し上げ、お取り上げくださらないので、相手方へ取りかかる(討ち入る)ことは、ひとへに(まったく)、天下に対してお恨み申し上げるのと等しくございます。
 ですから、もってのほかの義、大学様始めご一門の方様までのおん為にもよろしくない事なので、ただ一すじに殿様のお憤りを晴らしてさしあげるより外の心はございません。一たん(ママ)、以上申し残したごとく、武士の道を立て、主君の仇(あだ)をとって報い申すまでのことで、まったく天下に対しては、お恨み申し上げるものではございません。
史料(5)
 此うへにも天下へ御そせう(訴訟)申上何とそあい手かたへ御手あてもくたり大かく様ニも世間ひろく御とりたて被遊被下候様ニ一命にかけて御なけき申上、せひ御とりあけ無候ハヽその時相手かたへは取かけ可申由しきりにそうたんの衆も御座候、
 尤一理御座候様にハ候へとも中ヽさ様のとたう(徒党)かましき事可仕道理とそんし不申、その上御ねかひ申あけ御とりあけ無御座ニ付、あい手かたへ取かゝり申候たんひとへニ天下へ御うらみ申上候にひとしく御座候、
 しかれハもつての外義 大かく様初御一門のかた 様まても御ためよろしからぬ事にて候故、たゝ一筋ニ殿様御いきとをりをはらし奉候より外の心無御座候一たん右申残し候ことく武士の道をたて候て御主のあたをむくひ申迄にてまつたく天下へたいしたてまつり御恨申上ルにて無御座候

(1)どのようにしても、天下への恨みと同じです
(2)親や妻子に処分があっても仕方がないことです
(3)幕府の決定通り、お覚悟をお願いします
(4)おろおろされると後ろ髪を引かれる思いになります
(5)私たち兄弟は、武士に生まれた恩恵に喜んでいます
 しかしながら、どのような考えを以ってしても、天下へお恨み申し上げたのと同じだとして、私たちの親や妻子にたたり(報い)があったとしても、力及ばぬ(仕方のない)ことです。万一、そのような事になったならば、以前から母上様が仰せられた通り、何分にもお上(幕府)よりの決定の通り、尋常(普通)にお覚悟なさってください。
 早まられて、お身を我とあやまちなさること(ご自害なさること)など、くれぐれもあってはならないことですので、必ずそのようにお心得なさってください。世間一般の女のように、かれこれとお嘆きの顔色も外に見せて、おろかな様におられたならば、どんなにか気の毒で、心を後ろに引かされる思いです。
 さすが常日頃からお覚悟なさっていて、お考えを決め、かえって健気なるお励みにも預かり(励まして頂き)ましたことは、さてもこの世の仕合(幸せ)、来世の喜び、何事かこれに過ぎることはありません。天晴れな(すばらしい)ことに、われわれ兄弟は侍の冥利(恩恵)にかなったことだと、浅からぬ本望に思っています。
史料(6)
 しかれともいか成ル思召御さ候て天下へ御うらみ申上たるも同前とてワれ共のおや妻子御たゝり御座候とてもちからおよひ申さす候、まん一左様の事ニ成候ハヽかねて仰られ候とおり何分にも上よりの御げち(下知)の通じんぢやうに御かくこ(覚悟)可被成候、
 御はやまり候て御身をわれと御あやまち被成候御事なとくれ有ましき御事にて候まゝかならす 左様ニ御心へ被成候へく候、世の常の女のことくニかれ是と御なけきの色も見へさせられ、おろかにおはしまし候ハヽいかはかりきのとくにて心もひかされ候はん哉、
 さすかつねの御かくこはと御さ被成候て思召切かへりてけなげ成る御すゝめにもあつかり候御事さて今生の仕合未来のよろこひ何事かこれニ過申候ハんや、あつはれワれ兄弟は侍のめうりにかなひ申たる儀と浅からぬ本望ニそんし奉候

(1)私や幸右衛門・金右衛門らは、たやすく本望を遂げます
(2)心が落ち着かないけれども、仕方がありません
(3)孝行はしたいが、主君のために父母の命を失うのも義
 これから先の結果については、心配しないでください。私(大高源五)は31歳、小野寺幸右衛門は27歳、九十郎(岡野金右衛門)は23歳。いずれもいずれも屈強の者どもです。たやすく本望をとげ、亡き主君のお心を安らかにしてさしあげ、未来(あの世)で閣魔の金札のみやげに供えますので、お心安くお考え下さい。
 ただご無事で、何事も時節をお待ちになってください。齢(よわい)もかなり取り、先がそんなにはないお身(母上)に、さぞお心細く、便りもあらぬかたに(ママ)少なく、月日を忍んでお過ごしになるだろうと思へば、どれほどか、心がうく(落ち着かない)けれども、そのことはどうにも仕方ありません。
 時には望んで、主君の命にそむき、父母を肩におぶって、どんな山の奥や野野の果てに行って隠れ、また、主君のために父母の命をも失うことは、義とはいうものの「止められない試しです」。これらの道理については暗からぬそもじ(母上)ですが、筆にまかせ申し残しました。
 九十郎(岡野金右衛門)の母君やお千代へも、ときどきは仰せ聞かされて、必ずおろかに悲しむことのないように、たがいにお力を添えてやってください。
史料(7)
 さきにての首尾の程御こゝろニかけさせられましく候、私三十一、(小野寺)幸右衛門廿七、九十郎(岡野金右衛門)廿三、いつれもヽくつきやうのものともにて候、たやすく本望をとけほうくん(亡君)の御心をやすめ奉り未来ゑんまの金札のミやけニそなへ可申候まゝ御心やすく思しめし
 たゝ御そく才にて何事も時節を御まち可被成候、御よわひもいたふ御かたふきいくはとあるましき御身に嘸御心ほそく便もあらぬかたにとほしく、月日を御しのきあそはし候ハんとそんし奉候へは、いかはかり心うく候へともそのたんちからおよひ不申候、
 時にのそみ候てハ主命をそむき父母をかたにかけていか成る山のおく野ゝ末ニもかくれ、又主君のために父母の命をもうしなひ申事義と申ものゝやミかたきためしにて候、これらの道理くらからぬそもし様にておはしまし候へとも筆ニまかせ申残し候、
 九十郎母公・お千代へもよりハ仰きかされ候てかならすおろかにかなしみ申さぬ様にたかいに御ちからをそへさせられ候へく候

(1)世間が穏やかになれば、お寺参りもして下さい
(2)うばには諦めるように言ってください
 さいわいなことに、(母上)はご出家(僧侶)の身なので、この後いよいよ仏のおっとめのみされて、うさもつらさも紛れさせ、来世のこと朝夕にお忘れなく、世も穏やかになれば、寺へも時々お参りしていただきたく思います。ひとつは、ご歩行がご養生にもなります。うばにもあきらめるように、よく仰ってください。かしこ
 元禄十五年九月五日  大高源五
母御人様
   しん上 (進上)
史料(8)
 さいわひかな御法体の御身にて御さ候ヘハ此後いよもつて仏の御つとめのミにてうさも、つらきも御まきれまし未来の事あさ暮に御ワすれなく世もおたやかに御座候ハヽ寺へも節御まいりあそハし候へく候、ひとつハ御歩行御ようしやうニも成申候へく候、うはニもあきらめ候様ニよく仰られ可被下候、かしく  
元禄十五壬午年九月五日   大高源五    
母御人様    
しん上
(赤穂市正福寺所蔵)

堀勇雄氏の持論
素行さんの門人は一人も仇討ちに参加せず
 堀さんは、「門人は一人も仇討ちに参加していない。素行さんに直接教えを受けた者は一人も参加せず、素行さんの感化に依るものと強調するのは、牽強付会ではなかろうか」と指摘する。
堀氏に反論
老中や有力大名にも浸透していた素行論
赤穂浪士には当然
参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市発行)
堀勇雄『山鹿素行』(吉川弘文館の人物叢書)

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