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元禄15(1702)年9月5日(第158号)

忠臣蔵新聞

仇討ちと武士道(1)

赤穂浪士に影響を与えた山鹿素行さん

徳川綱吉さん 山鹿素行さん

武家諸法度の変化

大坂の役後は武道第一
綱吉さんの時代は忠孝と礼儀を重視


 1615(元和1)年に出された武家諸法度の第一号は「文武弓馬の道、もっぱら相嗜むべき事」というもので、大坂の役後の状況を反映して、武道第一の内容となっています。

 1683(天和3)年に,綱吉さんは代がわりの武家諸法度をだしました。その第一条は「文武忠孝を励し,礼儀を正すべきこと」に改められました。これは以前武士に求めていた武道一片を改め、主君に対する忠と父祖に対する孝,それに礼儀による秩序をまず第一に要求したものでした。 この考えは儒教によるもので,綱吉さんは林信篤さん(羅山さんの孫鳳岡)を幕府の大学頭に任命して、儒教重視政策を推進しました。

山鹿素行さんと武士道

素行さんの主張
「君の讎(あだ)を奉ずる事、是れ勇士の
節に死するの大義なり」


素行さんの赦免後
老中と有力大名間に素行さんの武士道浸透


 1663(寛文3)年山鹿素行さんは『山鹿語類』のなかで「君の讎(あだ)を奉ずる事、是れ勇士の節に死するの大義なり」「其の君無道にして、天子命じて罰せられなんは、仇を報ゆるの義あるべからざる也」と主張する。
 1665年の『聖教要録』により幕府中枢で文治政治の推進者保科正之さんと個人的に対立しました。その結果1666年から10年間赤穂に流されました。
 保科さんが死亡すると、素行さんは許されて江戸に帰りました。と同時に老中や諸大名らが素行さんの著作を公然と読んだと言われています。つまり、幕府だけでなく、有力大名のなかには
素行さんの武士道が自然に浸透していたことになります。
参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市発行)
堀勇雄『山鹿素行』(吉川弘文館の人物叢書)

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