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元禄15(1702)年12月15日(第242号)

忠臣蔵新聞

引上げ途中の出来事(1)

両国橋東詰め〜永代橋まで進む
赤穂浪士が休息した地は今も残る

永代橋東詰めの義士休息の地の碑 現在の残っている乳熊のビル
12月15日(東京本社発)
両国橋東詰め〜一之橋〜万年橋〜上之橋〜永代橋
永代橋東詰めで、赤穂浪士は休息しました?
 赤穂浪士の47人は、両国橋東側の広場で、吉良・上杉側の追っ手を待っていましたが、来る様子もないので、泉岳寺に向うことにしました。
 当初の予定では、隅田川を船で、泉岳寺まで行こうとしたらしい。しかし、討入衣装に、血の臭いがする集団を乗せる船頭もおらず、仕方なく、隅田川沿いに南下して、歩いて出発しました。
 隅田川に流れる竪川にかかる一之橋を渡りました。
 新大橋の東岸には幕府の御船蔵があり、その東の通りを御船蔵後通りと呼んでいました。現在は万年橋通りといいますが、その通りを南下して小名木川にやってきました。小名木川は、銚子〜江戸川〜利根川〜新川を利用して隅田川につながる運河の拠点です。新潟・秋田産のコメを船のみで輸送する東廻り航路として有名です。この小名木川にかかる万年橋を渡りました。小名木川は運河ですので、船の運航に支障がないようにと橋を高くしていたので、富士山の眺望ができる所でもあります。
 次に仙台掘にかかる上之橋・中之橋・下之橋を渡ってさらに南下しました。
 やがて赤穂浪士一行は、永代橋にやってきました。
 永代橋の東詰めに乳熊屋という味噌屋がありました。乳熊屋の主人である作兵衛さんは、大高源五さんと同じ宝井其角さんの弟子でした。
 討入本懐を遂げた赤穂浪士たちは、永代橋にやって来ました。丁度、乳熊屋味噌店では棟上の日でしたが、主人の作兵衛は、赤穂浪士を店に招き入れて、甘酒粥を振る舞い、労をねぎらいました。そこで、大高源五は、棟木にその由来を書き、泉岳寺へ引き上げて行きました。
 これは有名な話であり、現在も、乳熊というビルが残っています。その前の石碑には、以上のようなことが書かれています。ロマンとしては、事実であって欲しいと思いますが、討入という大事件の後、泉岳寺への引揚げ途中、一行には、他人の好意を受け入れる時間的な余裕もなかっただろうし、心も余裕もなかったと思います。
 大高源五は書いたという棟木でも残っておればと悔やまれます。
参考資料
赤穂義士休息の地
 赤穂四十七士の一人大高五子葉は
俳人としても有名でありますが、ちく
ま味噌初代竹口作兵衛木浄とは其角
の門下として俳界の友でありました。
 元禄十五年十二月十四日討入本懐を
遂げた義士達が、永代橋へ差し掛るや、
あたかも当所乳熊屋味噌店上棟の
日に当り、作兵衛は一同を店に招き入
れ甘酒粥を振る舞い労を犒らったの
であります。大高源五は棟木に由来を
認め、又看板を書き残し泉岳寺へ引き
上げて行ったのであります。
 昭和三十八年二月
  ちくま味噌十六代
   竹口作兵衛識

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)

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