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元禄15(1702)年12月15日(第243号)

忠臣蔵新聞

引揚げ途中の出来事(2)

永代橋から迂回したのは?

線は赤穂浪士の引揚げルート(亀島橋の西詰に安兵衛の碑)
堀部安兵衛武庸之碑(東京尾形信也氏提供)
写真をクリックすると拡大します
12月15日(東京本社発)
永代橋から大きく迂回して、高橋を渡る
 上の地図を見ると、赤穂浪士は永代橋を渡った後直進せず、北上して、昔の豊海橋を渡って霊巌島に進みました。
 その後、越前堀亀島川の間を南西に進み、亀島橋の東詰からは南東の高橋を渡っています。
 以前から、永代橋西詰から南西に進み、高橋を渡れば、最短であるのに、大きく迂回したことに疑問を持っていました。今日とは道路状況が違うので、問題点があればご指摘をお願いします。
 記者にとって、一番の弱みは、江戸に生まれ、江戸に育ち、江戸で暮らしていないということです。まるっきり、江戸の地理に疎いです。
 ここでは、『赤穂義士実纂』の記述をそのままお借りします。
『赤穂義士実纂』で当時を再現
 赤穂浪士は”永代橋を越えて、現在の箱崎北新堀町へ渡った。現在の永代橋はもっと南に架かり霊岸島へ渡るが、元禄期の位置はずっと上流であった。橋を渡って左折すると「豊海ばし」別名を「乙女ばし」と云い新堀川に架かる橋を渡る。元禄十一年の開橋であり、今日でも姿は違うが橋はある。その乙女ばしを渡って北新堀、大川端町と隅田川沿いに進み、更に新川沿いに西へ向い「二の橋」を渡り霊岸島。銀町から越前堀を左に見て進む。越前堀を亀島川沿いに東へ。こん日亀島橋の北畔に一碑が建っている。
 「豊海橋」から「高橋」までの霊岸島・新川・越前堀などが今日ではすっかり変貌してしまってその頃の道筋が偲べないのが残念”
大きく迂回した理由は越前藩中屋敷を避ける!?
 『赤穂義士実纂』でも、迂回理由は述べていません。
 ある説では、亀島橋の西詰辺を水谷町というそうですが、そこに、細井広沢さんが居住していたとか、堀部安兵衛さんが一時住んでいたから、迂回したという。
 当時、細井広沢さんは、深川八幡町に住んでいたといいます。
 部安兵衛武庸之碑が水谷町といわれる所に建っています。堀部安兵衛さんが住んでいたからだという説に準拠したといいます。
 細井広沢さんや堀部安兵衛さんにちなんで迂回したともいえません。
 最近、最短コースには、越前藩松平家の中屋敷があったため、それを避けたという説が出てきました。今の所、私には一番納得がいく理由に思えます。
堀部安兵衛武庸之碑の要約と原文
 堀部安兵衛武庸之碑の原文か参考資料をご覧下さい。
 要約は、「堀部安兵衛は、新発田藩の子で、高田の馬場のあだ討ち後、水谷町の細井広沢家に同居し、浅野家家臣の堀部弥兵衛の娘妙と結婚しました。その後、吉良邸に討入して、34歳で亡くなりました」というものです。
参考資料
堀部安兵衛武庸之碑
 「越後新発田五万溝口藩中山弥次右衛門の子、寛文十一年生まれ、元禄元年江戸之念流堀内道場へ入門、元禄四年玉木一刀斎道場師範、元禄七年二月高田の馬場に於て叔父菅野六郎左衛門之仇討其の後京橋水谷町儒者細井次郎太夫家に居住、浅野家臣堀部家の妙と結婚、堀部安兵衛武庸となる。禄高二百石。元禄十四年十月本所林町に於て長江長左衛門の名で剣道指南、元禄十五年十二月十四日赤穂義土の一人として吉良邸に乱入、仇討す。元禄十六年二月四日没三十四歳
 刃雲輝剣信士」

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)

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