元禄15(1702)年12月15日(第244号)
引揚げ途中の出来事(3)
旧浅野家屋敷辺で詰問を受ける
詰問した人は我が藩の名誉と自慢
一行を阻止する大名はなし
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12月15日(東京本社発) |
赤穂浪士一行は、高橋から稲荷橋を渡り、鉄砲州に入る 旧浅野家上屋敷付近では、宮津藩士から詰問を受ける 鉄砲州上屋敷から築地本願寺に向かう |
高橋を渡った赤穂浪士一行は、その後、稲荷橋を渡り、鉄砲州稲荷神社の側を通って、鉄砲洲に入りました。鉄砲州には、赤穂浅野家の上屋敷がありました。元禄15(1702)年頃は、若狭の小浜藩主の酒井靱負さんの屋敷になっていました。昔を偲んで、上屋敷付近を通っている時に、「怪しい奴らだ」と咎められていますが、通行は阻止されませんでした。 次に、丹後の宮津藩主の奥平熊太郎さんの屋敷前を通っている時に、宮津藩の家来である桜井惣右衛門さんが出て来て、「怪しい格好で通ろうとしているが、その理由を聞かせて欲しい」と言われました。そこで赤穂浪士の奥田孫太夫さんから今までの経過を聞きました。 それ以後は、方々の大名屋敷から詰問もあったようですが、赤穂浪士が泉岳寺に行くのに支障があるようなことは無かったということです。 それと同時にばっとこの噂が江戸中に広まりました。 櫻井惣右衛門さんは、赤穂浪士の奥田孫太夫さんに詰問し、討入の経緯を聞いたということで、上から下まで名前を知られるようになりました。それだけでなく、宮津藩に対する世間の評判もよいので、喜んでいます。 桜井さんは、家中の奥平市郎兵衛さんなどに、これは内証ですよと自慢話を書き送っています。 その後、赤穂浪士は、築地本願寺横を通って、汐留橋に向かいました。 |
参考資料 |
「酒井靱負様前通り候時分何者やらん怪き者と見へとがめ申候、奥平熊太郎様御門前を通申候節侍らしき者一人罷出怪敷体にて通申候間委細申間可申由申候に付右の段々申罷通り候由申上候」「其已後方々御屋敷方のとりさたにも宜御沙汰に風聞仕候」「ばつと江戸中取沙汰仕候、尤も内匠頭殿御家来拙者承り申候節拙者名を聞申候間名のりきかせ申候、奥田孫太夫と申候、存の外成時節に出合上々様下々迄拙者名を知られ申候、一分の大慶御家の御外聞能御座候て喜悦仕候、定て御家中より其許御家中へ方々より可申参と存候間、私方よりも各様迄御内証にて御しらせ可申と為念如斯御座候、恐惶謹言 (元禄一六年) (丹後宮津藩奥平昌成家中) 正月七日 桜井惣右衛門正朝判 奥平市郎兵衛様 上野三郎左衛門様 角 半右衛門様 角 喜兵衛様 尚々右の儀に付御家中の内にても色々取付風聞仕候間、其方へも様々に可申参と存候間為念各様迄申入候間、左様御心得可被下候、以上」(宮津藩家中書状) |
参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)