元禄15(1702)年12月15日(第245号)
引揚げ途中の出来事(4)
吉田忠左衛門さんと富森助右衛門さんが自訴
相手は大目付の仙石伯耆守さん
その時、寺坂吉右衛門さんはどうした?
大目付の仙石伯耆守邸跡 | 仙石伯耆守に自訴した吉田忠左衛門 (赤穂大石神社蔵) |
@龍野の脇坂淡路守邸A仙台の松平陸奥守邸B会津の松平肥後守邸 C浜御殿D松平隠岐守邸E■大目付の仙石伯耆守邸 |
12月15日(東京本社発) |
赤穂浪士一行は、汐留橋を渡り、金杉橋に向かいました 内蔵助さんから指示を受けた吉田さんと富森さんは、大目付に自訴しました |
汐留橋を渡った大石内蔵助さんら赤穂浪士の一行は、龍野の脇坂淡路守邸→仙台の松平陸奥守邸→会津の松平肥後守邸の前を金杉橋を目指して南下しました。 大石内蔵助さんからの指示を受けた吉田忠左衛門さんと富森助右衛門さんは、会津の松平肥後守邸を過ぎた頃、幕府の大目付である仙石伯耆守久尚さんに自訴するため、一行から離れました。 午前9時頃、吉田さんと富森さんの2人は、討入の時に吉良邸に突き立てた討ち入りの趣意書である「浅野内匠家来口上書」と同じ物を大目付の仙石さんに差し出しました。 |
大目付の仙石伯耆守久尚さんは、月番老中の稲葉丹後守正通さんに報告 刃傷事件の時と同じ顔ぶれ幕閣会議 |
12月15日は大名の江戸城登城の定例日でした。そこで、大目付の仙石さんは、あらましを聞いて、家老の井上万右衛門さんにその後を指示して、登城しました。 その途中、仙石さんは登城の途中に月番老中の稲葉さん宅に寄り、赤穂事件のあらまし報告しました。 江戸城内では、急遽、幕閣が開かれました。老中で出席したのは、稲葉さん、小笠原長重さん、秋元喬朝さん、土屋正直さんの4人です。浅野内匠頭さんの刃傷事件の時の老中と同じ顔ぶれです。 若年寄で出席したのは、加藤明英さん、井上正岑さん、稲垣重富さんの三人です。若年寄も、刃傷事件の時と同じ顔ぶれです。 その後、大目付の仙石さんは、帰宅して、吉田さんらから詳細を聞き取りました。 |
泉岳寺で寺坂吉右衛門さんの欠落が判明 泉岳寺は人数と事件の概略を寺社奉行に報告 幕閣会議は、「義挙」として感嘆 |
午前8時頃、大石内蔵助さんら赤穂浪士一行は、泉岳寺に到着し、主君の浅野内匠頭さんの墓前に吉良上野介さんの首級を供えました。 その後、内蔵助さんらは泉岳寺の衆寮などに入り、泉岳寺の酬山和尚に事の経過を報告しました。しかし、口上書には47人の名前が列記されているのに、44人しかしませんでした。寺院側がその理由を確認すると、「吉田・富森は大目付に自訴し、寺坂吉右衛門は欠落ちした」ということが分りました。寺院側は、その旨を寺社奉行の阿部飛騨守正喬さんに報告しました。 寺社奉行の阿部さんのや大目付の仙石さんの報告を受けて、再度、幕閣が協議しました。その時、出席者の殆どは赤穂浪士の討ち入りを「義挙」として感嘆したということです。 |
参考資料 |
「大石内蔵助といへるは、心深き男子なりしかば…げにも四十六人の者共が志を同じくし、義を一にし、人のなしがたき事をなし得つるは、その類あるまじくこそ」(『徳川実紀』12月15日条) |
自訴は死にたくなかった証拠か? 自訴は計画的か、思いつきか? 寺坂吉右衛門さんの欠落の理由は? |
(1)井沢元彦さんや岳新也さんらは、赤穂浪士が自訴したのは、討ち入りの義挙を口実に助命嘆願の意味があるとあげつらっています。しかし、討ち入り前の『討ち入り心構え16箇条』の中で、「上杉方から追っ手があれば踏みとどまって戦う」とか「引き上げた後も必らず死ぬと覚悟する」と書いています。引き上げの時、回向院前で立ち止まって、上杉家の追っ手を待っています。これらを見ると、為にする議論でしかないことが分ります。 (2)大目付への自訴を思いつきという説は、以前からもありました。最近、私も所属している財団法人中央義士会が2005(平成17)年に発行した『赤穂義士の引揚げ〜元禄の凱旋〜』でも、「この仙石邸への自訴は、討ち入り前から決めていたことではなく、この引揚げの途中、不破数右衛門が思い付き、歩きながら大石に進言して”ならば”と云うことで吉田・富森が選ばれたと見るべきである」と書いています。第一次史料の『不破書状』を引用しているので、「思いつき」説は重いと思います。 しかし、私は、以下の3点から、「思いつき」説に納得できません。 ●あれほど慎重にも慎重を重ねてきた大石内蔵助さんが、自訴を計画に入れていなかったのでしょうか。 ●思いつきであるのに、大目付の仙石伯耆守邸に直行できたのはどうしてでしょうか。 ●思いつきなのに、どうして、急に、「浅野内匠家来口上書」を用意できたのでしょうか。 以上の状況証拠から、私は、計画的自訴説を支持しています。特に、幕府に喧嘩両成敗の結末を遂げさせようとする大石内蔵助さんの最大眼目が、思いつきだったとは、とても納得できません。 (3)寺坂吉右衛門さんの欠落については、次号から詳細に検討します。 |
追伸:このページをご覧になった方から、吉田忠左衛門さんらが仙石邸に自訴した時に、「浅野内匠家来口上書」を提出したという根拠は何ですかという問い合わせがありました。 史料中心をモットーとする私として、その分が欠けていましたので、改めて提示致します。 |
吉田忠左衛門さんと富森助右衛門さんは、仙石伯耆守殿へ参上しました。そして「討入の詳しい口上書を書き、吉良上野介殿の屋敷に立てたのと同じ控えを懐中の持っております。これをお見せしたいのですが」と聞いた所、伯耆守殿がご覧になるというので、差し出しました。 |
史料 |
「一、忠左衛門 助右衛門儀伯耆守殿へ参上…「委細口上書あい認ため 上野介殿屋敷に立て置き申し候右の扣え懐中仕り候 これをご披見に入れ申すべきや』と相い窺い候処 ご覧なさるべきの由にて指し上げ候」(『江赤見聞記』) |
参考資料 |
以下は、赤穂市が発行している忠臣蔵概説(第一巻)の一節です。 「泉岳寺に向かう一行と新橋辺りで別れた吉田忠左衛門・冨森助右衛門は一五日五つ半時(午前九時)大目付仙石伯耆守久尚の愛宕下屋敷に『浅野内匠家来口上』を持って出頭し、年来の志を達したので今はひたすら公儀のお裁きに身をゆだねる旨申し出た」 |
参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)
『赤穂義士実纂』(斉藤茂著)