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元禄15(1702)年12月15日(第246号)

忠臣蔵新聞

寺坂吉右衛門さんについて(1)

赤穂義士は47人か?
それとも46人か?
死を逃避した榎本武揚は武士ではない?

『赤穂義士論』(赤穂市発行) 寺坂吉右衛門木像(赤穂大石神社蔵)
12月15日(東京本社発)
八木哲浩氏(当時神戸大学名誉教授)は46人説
「討入り後離脱は義士の資格を失う」
 八木氏は『赤穂義士論』で「武士の世界では、死からの逃避は恥であった。幕府は、武士の道を立てて四十六士に死を選ばせた。四十六士の死と、寺坂の生とのあいだには大きな隔たりがあることを思うべきである。寺坂の討入りを壮としての称賛、同情に発する寺坂義士説は三〇〇年のあいだにあまりにも堅く固まってしまったが、それは所詮、史実ではなく虚像を追うものであり、文芸としての「忠臣蔵」の域を出ない」と主張し、切腹しなかった寺坂吉右衛門さんを、義士ではないと断定しました。
飯尾精氏(当時大石神社宮司)は47人説
「寺坂は決して死を惜しむような人間でない」
 飯尾氏は『赤穂義士論』で「元禄十六年二月四日の四十六士処刑のあとならいざ知らず、討入り後僅か二週間の十二月二十九日には亀山へ帰っているのだから、浪士たちの処分はまだ決定していない時期である。従って万が一には吉田はいつ許されるかも知れないし、いくら嘘をついてもすぐばれるような時期に、寺坂がそんな危険を犯してまで平気で亀山へ行くだろうか。これは常識の域を出ない問題である。
 寺坂が決して死を惜しむような人間でないことは、その行動、特に播州に帰ってからの生涯をみれば実に立派な生き様である」と主張し、切腹はしなかったが、寺坂吉右衛門さんを、義士であると断定しました。
北爪照夫氏(当時赤穂市長)は、市議会で答弁
市が係わります行事につきましては四十七士を顕彰
四十七士説・四十六士説は研究者の領域で論議されるべきもの
 北爪氏は『赤穂義士論』で「平成四年十二月の市議会本会議において”赤穂義士は四十六士か四十七士か”という質問があり、その際、私は、
 今後、市が係わります行事につきましては四十七士を顕彰してまいりますし、観光事業等におきましても同様に扱われるのが適当であろうと考えます。
 一方、学術面、史実の上での赤穂義士と、芸能・文芸の忠臣蔵の領域があります。特に史実につきましては、当事者が書いた資料、伝聞、後世の記録など、非常に多くありました。そのためにそれぞれの観点から、四十七士説、四十六士説が、元禄の事件直後から議論され続けており、これらは研究者の領域で論議されるべきものであると考えます」と答弁しています。
作者である私の立場
「武士の定義」とは何か?
八木説・新渡戸説は、赤穂浪士の討入りには当てはまらず
 私は郷土史研究では、八木哲浩先生にご指導を受けました。
 忠臣蔵新聞の写真などに関しては、飯尾精宮司にお世話になりました。
 どこで、どちらの立場にも与せず、冷静に、私の結論を述べます。
 八木先生の説は、「武士の世界では、死からの逃避は恥であった」という前提があります。しかし、この物差しで全ての武士を律することが可能でしょうか。
 八木氏は『赤穂義士論』で、新渡戸稲造の『武士道』を引用しながら、「武士道は古今東西に通じる、人間生まれながらの本能的正義感に根ざしたものであり、仇討ちと切腹は目上の大、恩義ある人に対する自己の言説の誠であることを示す無償、損得勘定抜きの名誉ある至高の表現であるとしている。そこにはずれた行動が武士道にそぐわぬものであることはいうまでもない」と主張します。
 しかし、果たし状による仇討ちには、高田の馬場の堀部安兵衛がいます。しかし切腹していません。荒木又右衛門がいますが、彼も切腹していません。
 赤穂浪士の討入りは、仇討ちであっても、幕府の許可を得ていません。これは幕府にとっては、徒党であり、反逆罪であり、磔・獄門の対象です。
 新渡戸説は、赤穂浪士の討入りには当てはまりません。なぜなら、幕府は、磔・獄門とせず、切腹という寛大な処置を行ったのです。
  死んで果てた者も武士なら、生きて尽くした者も武士
 明治新政府にとって、徒党であり、反逆罪であり、磔・獄門の対象であったのは、五稜郭の戦いを指導した榎本武揚であり、大鳥圭介や土方歳三です。
 土方歳三は、鳥羽・伏見の戦い・上野戦争・会津戦争と戦い抜き、最後には五稜郭の戦いで、戦死しました。彼も武士です。
 榎本武揚や大鳥圭介は、敵の指揮官黒田清隆の勧めで、「生きて、新政府のために」尽力しました。彼らも武士です。
 次回は、史料を使って、寺坂吉右衛門さんについて検証していきます。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『赤穂義士論』(赤穂市)

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