元禄15(1702)年12月15日(第247号)
寺坂吉右衛門さんについて(2)
赤穂義士は47人か?
それとも46人か?
吉良邸に討ち入ったのか?
『赤穂義士論』(赤穂市発行) | 左(吉田忠左衛門さん)・右(寺坂吉右衛門さん)(共に赤穂大石神社蔵) |
12月15日(東京本社発) |
八木哲浩氏(当時神戸大学名誉教授)が認める 『寺坂信行筆記』は第一の史料である |
八木氏は、『寺坂信行筆記』を第一の史料とされています。その根拠を『赤穂市史』で以下のように述べています。 『寺坂信行自記』は、叙述が討入り前で終わっているので、寺坂本人が書いたと思われる。 『寺坂信行筆記』は、討入りの状況その他が『寺坂信行自記』の後に追加され、1703(元禄16)年5月までに成立しているが、討ち入り部分は寺坂本人が書いたと思われる。吉右衛門さんは、堀内伝右衛門筆記を見る前に、この筆記を書いていることになります。 |
以下は『寺坂信行筆記』(赤穂市史)の原文です。赤字の部分に注目してください。 |
忠左衛門殿申され候は、@隠居屋裏門の内にて候間、兎角此方心元なく候とて尋ねられ候所、A台所の脇炭部屋に物音聞候付、忠左衛門殿欠付さがし成られ候所江人々かけ付、何者やらんと詮議致され候得共、知がたく、上野介殿ならば去年内匠頭様御切付成られ候疵これ有るべし、改候得共、当時の疵にて見分けず、肩先に古疵これ有るべしとて改め、B疵見出し申候、其上、下にC白無垢着申され候間、D上野介殿に紛これ無とて、意趣の事委敷申聞せ首を討、生捕の者共に見せ申所、紛これ無く上野介殿の内申候 |
吉田忠左衛門さんの口述を記録した 『堀内伝右衛門筆記』の第一の史料である |
次は、熊本藩主から赤穂浪士の接待を仰せつかった堀内伝右衛門さんの記録です。『堀内伝右衛門筆記』といい、これも第一の史料です。吉田忠左衛門さんの口述を記録している部分を紹介します。 こちらも赤字の部分を注目してください。 |
吉田忠左衛門申され侯は、拙者ハ此度裏門より打入申候、大方@隠居と申ものハ奥座敷裏ノ方ニ建申事世ノ常ニ御さ候故、幸に存じ吟味仕候処、葭垣付之雪隠之様なる所に人音仕候故押破参候ヘハ、何ものか其侭座敷ニはいり申ものこれ在り候、大形ハA台所より仕込候かこいのやう成所を両方よりセり込候所、三人居申皿又ハ茶碗・炭なとニ而投打をいたし候ゆへ、間十次郎其まゝ鑓つけ申候、上野介殿前ニ両人立ふさがり防き申者殊外働き申候、両人共ニ討果申候、上野介殿も脇さしをぬきふり廻り申され候処を重次郎鑓つけ印をあけ申候て見申候ヘハ、B古疵らしき処も見へC白小袖ヲ着申され候ニ付、吟味仕候得ハD上野介殿に極り申候 |
八木氏は、両筆記を比較・検証して、 @〜Dまでの類似を指摘 |
寺坂吉右衛門さんは泉岳寺に入る前に姿を消しています。吉田忠左衛門さんは、泉岳寺に入ってからは、大目付の仙石伯耆守久尚屋敷に移り、その後は、細川越中守綱利屋敷に移ります。つまり、両者は、接することが出来ない状況で、筆記を残しています。 そのことを踏まえて、八木哲浩氏は、この『寺坂吉右衛門筆記』と『堀内伝右衛門筆記』を比較・検討して、次の様に書いています(『赤穂義士論』) |
「両者を対照すると、両史料には、裏門から討ち入り、吉良を捜したがみつからないこと、@隠居部屋は一般に奥座敷の裏手にあるものだ。″吉田がこういって、そのような場所を捜し回ったこと、ついにA台所脇の炭部屋に物音がするのを聞きつけ、C白小袖の人をみつけた。そして額のB古痕を調べたりしてD吉良と判定したことなど、両者の記事は甚だ相似ていることがわかる」 「寺坂が主人とともに裏門から吉良邸に入り、吉良討取 りのところまで吉田の家来として吉田に付き従って行動したことを示すものにはかならない。そうでなければ、二人が遮断された別々の環境で同内容のことを別々に書けるはずがない。そのように考えてくると、確かに寺坂は吉良邸に討ち入ったこと、吉良討取りまでは吉田の従者として吉田の傍にあって行動したことがわかるのである」 |
八木氏は、寺坂吉右衛門さんは、吉良邸を出るまでは、吉田忠左衛門さんと行動を共にしたということを認めています |
八木氏は、「寺坂吉右衛門さんは吉良邸を出るまでは居た」と結論 |
八木氏は、寺坂吉右衛門さんは、吉良邸を出るまでは、吉田忠左衛門さんと行動を共にしたということを認めています |
私の立場は、史実に基づいて、47士説です。八木先生からすると、反論者の立場です。反論者の立場からすると、八木先生の史料を使って、検証することは、相手の土俵で相撲することになります。 飯尾精名誉宮司の史料を使わないのは、そういう意味です。 次回は、寺坂吉右衛門さんは、いつ、姿を消したのかを検証します。 |
参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『赤穂義士論』(赤穂市)