元禄15(1702)年12月15日(第248号)
寺坂吉右衛門さんについて(3)
赤穂義士は47人か?
それとも46人か?
いつ離脱したか?
『赤穂義士論』(赤穂市発行) | 左(吉田忠左衛門さん)・右(寺坂吉右衛門さん)(共に赤穂大石神社蔵) |
12月15日(東京本社発) |
八木哲浩氏(当時神戸大学名誉教授)が認める 『寺坂信行筆記』は第一の史料である 吉右衛門さんは、忠左衛門さんの自訴を見届ける前に離脱した |
前回(第247号)、寺坂吉右衛門さんは、吉田忠左衛門さんと共に、吉良邸に討ち入ったことを証明しました。 それでは、いつ、吉右衛門さんは、一行から離脱したのでしょうか。それが今回の主題です。 『寺坂信行筆記』には、引揚げについて、次の様に書いています。 「その時、鉦を打って、味方の人数を集めました。吉良上野介さんの首を小袖に包んで、槍の柄に掛け、捧げ持ちました。味方には、怪我人はそれほどありませんでした。少し手傷を負った方々も、当分の間、喜びに紛れ、その傷も苦になる程のことではありませんでした。その後、新大橋へ掛り、八丁堀より築地通、泉岳寺へ参られました。…私は、引揚げの途中、理由があって一行から引き離れました」。 |
史料 |
「其時鉦を打味方の人数を集申候、上野介殿首を彼相印の柚布に包み、鑓の柄に掛、捧げ申候、味方に手負さのみ無二御座一候、少々手痕有之候衆も当分悦に紛、苦に成候程の事にて無レ之候、夫より新大橋へ掛り、八町堀より築地通、泉岳寺へ被レ参候…引払の節、子細候て引別申候」 |
八木氏が指摘 吉右衛門さんは、泉岳寺門前に行く前に離脱 |
この史料を検証してみましょう。 (1)吉良邸での記述は詳細ですが、引揚げに関しては、大まかな記述になっています。 (2)一行は、新大橋を迂回しているにもかかわらず、「新大橋へ掛り」という表現をしています。八木氏は、この表現を新大橋を渡ったと解釈すると、吉右衛門さんは、本当の引揚げコースを知らなかったことになると指摘しています。 (3)「新大橋へ掛り」を、一行は新大橋のたもとを通ったと解釈すると、八木氏は、吉右衛門さんは永代橋の記録を忘れていると指摘しています。 (4)汐留橋を渡ってから、吉右衛門さんがずーっと付き従って来た吉田忠左衛門さんと冨森助右衛門さんが、一行から離れて大目付の仙石伯耆守宅へ自訴に及びました。八木氏は、吉右衛門さんはこの主人の行動について記していないと指摘します。 (5)「泉岳寺へ被レ参候」とは、泉岳寺に参られたという意味ですが、八木氏は、吉右衛門さんからすると、一行が参ったという意味でなく、主人の吉田忠左衛門さんが泉岳寺に入って行かれたと解釈すべきだと指摘します。八木氏は、このことから、吉右衛門さんは、泉岳寺まで行っていないことをうかがわせるものといえると指摘しています。 (6)「吉良邸での記述は詳細ですが、引揚げに関しては、大まかな記述になっている」という説には、私も以前から、同様の解釈をしていました。 |
次回は、「幕府は、吉右衛門さんの離脱をいつ知ったか」です いずれ、「引払の節、子細候て引別申候」を検証 |
『寺坂信行筆記』の末尾に、吉田忠左衛門さんの妻りんさんの兄弟である羽田半左衛門さんと柘植六郎左衛門さん宛ての書き添えがあります。 そこには、吉右衛門さんは、「引揚げの途中、理由があって一行から引き離れました」と書いています。この理由があってという一語が明解であれば、義士は47人か46人かの議論にならなかったと思います。 いずれ、この解釈を検証したいと思います。 次回は、幕府は、吉右衛門さんの離脱をいつ知ったかです。 |
史料 |
「引払の節、子細候て引別申候」 |
参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『赤穂義士論』(赤穂市)