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元禄15(1702)年12月15日(第249号)

忠臣蔵新聞

寺坂吉右衛門さんについて(4)

赤穂義士は47人か・46人か?
幕府は、泉岳寺からの
報告で、離脱を知る

『赤穂義士論』(赤穂市発行) 左(仙石伯耆守邸跡)・右(寺坂吉右衛門さん)
12月15日(東京本社発)
泉岳寺の点呼で、吉右衛門さんの離脱が判明
赤穂浪士一同は「寺坂が居ないわ」と弁護
 泉岳寺での赤穂浪士の様子については、泉岳寺の若い僧侶の白明さんが記録を残しています。
 それには、以下の様に書いています(『白明語録』)。
 「このような大事件は、寺社奉行に届ける必要があるので、人数を調べたいとして、1人ずつ名を言わせて書くと45人になる。吉田忠左衛門さんと富森助右衛門さんの2人は、大目付の仙石伯耆守殿へ自訴しているので、合計すると47人になる。もう一度人数を数えなおすと44人である。浪士の誰もがともかく45人であるという。そこで、1人ずつ呼んで、その者の名を答えさせると、寺坂吉右衛門さん1人がいない。赤穂浪士の誰もが言うには、前夜討ち入った時まで、吉右衛門は一緒に門に入り、一緒にいたはずだ。どうしてか”寺坂が居ないわ。もはや書き改める時間がないので、吉右衛門はいないとお届け下さい”というので、酬山長恩和尚が「浅野内匠家来口上」を寺社奉行に持参しました」
 この史料では、大石内蔵助さんら44人は、点呼を終わるまで、寺坂吉右衛門さんが同行していると考えています。しかし、吉右衛門さんがいないことが分ると、「いなかった事にしてくれ」と弁護するような発言をしています。
史料
 「先加様(かよう)の大小事寺社奉行へ届ける事なれば、人数を承るべしとて、一人々々名を言はせ書せしに四十五人なり、二人は伯耆守殿へ通はせし也、合せて四十七人なり、扨一人々々を数へ改めしに四十四人也、いづれも申さるゝに、何分四十五なりとあり、夫ゆゑ此度は一人づゝ呼て、其人より名の答へをさせしに、寺坂吉右衛門一人なし、いづれも申さるるには、夜前討入しまで、吉右衛門は一所に門へ入一所に居たりしが、どうして居ぬわと有事也、最早夫を書改る間これなく、吉右衛門は居申さず由御届下さるべく由申さるゝに付、寺社奉行へ右の書付、和尚持参申されたるなり」
仙石伯耆守邸での様子
忠左衛門さんらは吉右衛門さんの離脱を知らず
 吉田忠左衛門さんと一緒に大目付の仙石伯耆守さんの屋敷に自訴した冨森助右衛門さんは、仙石邸での様子を次のように書いています(『冨森助右衛門筆記』)。扣は控えの意(コピー)です。
 「忠左衛門さんと助右衛門さんが大目付の伯耆守さんの屋敷に行って、挨拶をしたいと申し上げました。伯耆守さんは直ぐに応対に出てきて、今夜の様子をお聞きになりました。『浅野内匠家来口上』を書いて吉良上野介殿の屋敷に立てて来た控えを懐中に入れていました。これを伯耆守さんにお見せしました。伯耆守さんは、これをご覧になり、段々とお聞きになりました。伯耆守さんから、”残らず届けたことは感心である”と、お褒めいただきました。いずれ登城して、老中方へご覧にいれるということでした。そのうち、内玄関に上がって休息するようにと言われ、終日滞在しました。今夜の様子は、井上万衛門さんという家臣がやって来て、尋ねられたので、大体の話を申しました。記録している最中に、伯耆守さんは急いで尋問されましたが、登城のように見えました」
 八木氏が指摘するように、忠左衛門さんらには、吉右衛門さんの欠落を把握していなかったので、重要な人数についての訂正の話が出ていないことが分ります。そこで、伯耆守さんは、47人の名前を書いた「口上書」を評定衆に提出しています。
史料
 「一 忠左衛門・助右衛門儀伯耆守様参上御案内申上候処、御直被聞召早速(御出、今暁之)様子有増御尋、口上書相認上野介殿やしきニ立置候右之扣懐中仕候、これを御披見入申候、御覧被成段々聞召被届無残所神妙之仕方と御称美ニて追付御登 城被成御老中様方江御披露可被成候、其内内玄関へ上り罷有休足いたし候様ニと被仰終日罷有候、今暁之様子井上万衛門と申御家来被出尋披申あらまし咄申候、書付被申中伯書守様ハいそき故御尋かけ早速卸登 城と相見申候」
幕府は、47人の前提で大名預けを決定
 仙石邸に集められた赤穂浪士は、4大名家に預けられます(『(毛利家)府中侯留書』)。
 それには、次の様に書かれた書付を渡されたといいます。
 「17人は熊本藩の細川越中守綱利」「10人は松山藩の松平(久松)隠岐守定直」「10人は防府藩の長門長府藩の毛利甲斐守網元)」「10人は岡崎藩の水野監物忠之」
 この段階でも、赤穂浪士は47人と把握されています。
史料
 「十七人 細川越中守(綱利)」「十人 松平隠岐守(松山藩久松定直)」「十人 毛利甲斐守((網元)」「十人 水野監物(忠之)(岡崎藩)」
泉岳寺からの報告で、吉右衛門さんの離脱が判明
幕府は、大名預けの人数を変更
 その後、泉岳寺からの寺坂吉右衛門さんの欠落という報告が寺社奉行から届けられました。岡崎藩の『水野氏丕揚録』には次の様に書かれています。
 「寺坂吉右衛門さん1人が欠けたことによって、岡崎藩の水野家は9人となりました。寺坂さんは岡崎藩の水野家にお預けになるという人員でした」
 その結果、10人を割り振られた水野監物忠之の岡崎藩は、9人に変更となりました。
史料
 「寺坂吉右衛門一人欠タルニヨリ御当家ハ九人トナリタルナリ、寺坂ハ御家(岡崎藩水野氏)アツケノ員数ノウチナリトイフ」
次回は、「たちのき」か「逐電」か「欠落」かを取り上げます

飯尾精氏(大石神社名誉宮司)が逝去されました
衷心より哀悼の意を捧げます
 「赤穂民報」によると、大石神社名誉宮司で赤穂義士研究家としても知られる飯尾精氏(87歳)が4月7日、急性心不全で亡くなられたということです。
 飯尾氏が赤穂高校(前身:旧制赤穂中学校)の同窓会長時代に、大変お世話になり、忠臣蔵のホームページをアップする時も、色々と、苦言やら励ましをいただきました。
 飯尾氏は、八木哲浩氏(当時神戸大名誉教授)との間で、寺坂吉右衛門についての激論を交わされました。
 私は、飯尾氏が存命中の1月14日から、寺坂吉右衛門についての記事を連載して、4月14日で4回目になります。飯尾氏から、厳しい叱責と激励の言葉をお聞きできないのが残念でなりません。
 心よりお悔やみ申し上げます。
 詳細は、「赤穂民報」のホームページをご覧下さい←ここをクリック

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『赤穂義士論』(赤穂市)

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