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元禄15(1702)年12月15日(第251号)

忠臣蔵新聞

寺坂吉右衛門さんについて(5)

吉右衛門さんは立派に赤穂義士である
仲間は、幕府の追及から徹底して守る

播州姫路城
吉田忠左衛門さんの娘婿の居城
討入り後、吉右衛門さんが姿を現す
左(吉田忠左衛門さん)・右(寺坂吉右衛門さん)(共に赤穂大石神社蔵)
12月15日(東京本社発)
12月15日の記録
吉右衛門は吉良邸に討ち入った
その後立ち退く
 討入り後、寺坂吉右衛門さんの様子を示す史料として、三村次郎左衛門さんが母宛に書いた書状があります。日付は12月15日で、場所は泉岳寺となっています。
 その内容は、「14日の夜、吉右衛門さんという者はその夜まで居たので、吉良邸に討ち入りましたが、吉右衛門さんのことを聞いたのですが、見えませんでした。立ち退いたように聞いています」というものです。
 三村さんは、この時期ですから、立ち退いたようだという認識です。
史料T
 「其夜吉右衛門と申者其夜迄居候間、屋敷へ参候而相たつね候得は見へ不申候、たちのき申候(由ニ)御座候」(母宛の三村次郎左衛門書状)
12月15日夜の記録
吉右衛門は上野介を討ち取るまではいたが、その後欠落
身分の軽い者お構いくださるな
 赤穂浪士44人が泉岳寺から大目付の仙石伯耆守久尚さんの屋敷に連れて行かれました。先の吉田忠左衛門さんと富森助右衛門さんの2人が合流して、46人が集結しました。この席で、大目付の家中の者が吉田忠左衛門さんに事情聴取しています。日付は12月15日夜となっています。
(1)忠左衛門さんは、「寺坂吉右衛門という足軽は私の組の者です。連判を望んだので、この節、同道いたしました。…吉良上野介殿を討ち取る迄は吉良邸にいました。その後見えなくなりました。きっと欠落したのであろう」と答えました。
 それを聞いた大目付の家中の者は、「寺坂吉右衛門は、広島にお預けの浅野大学殿へ連絡するため、在所へ飛脚に派遣されたのだろう」と推測したということです。
(2)忠左衛門さんの娘婿の伊藤十郎十太夫治興の子どもの治行さんは、義祖父からの手紙として、「仙石伯耆守さんの屋敷では、私(吉田)の組の者1人が吉良邸門前より駆け落ちしたと申し上げたところ、身分の軽い者なのでお構いなさるなと言われました。追って連絡を致します」という内容を紹介しました。これは、吉田忠左衛門さんの孫の記録で、父からの伝聞なので、第一次史料ではありません。
史料U
(1)「寺坂吉右衛門と申足軽我等組ニて候、連判ヲ望候故、此節召連申候、慥ニ塀ヲ乗内ニ入候、上野介殿討留申迄ハ居申候、其後見へ申さず候、定而欠落仕たるニてこれ有るべし由 忠左衛門申
 但此者ハ大学殿へ右之到来之ため在所へ飛脚ニ遣たると御役人衆御推量之由」(『浅野浪人敵討聞書』)
(2)「仙石伯耆守様にては、吉田忠左衛門私組之者壱人上野介様御門前より駈落仕候由申上候処、軽キ者之儀御構無之旨被仰候由追而承伝候也」(『伊藤十郎太夫治行聞書覚』)
12月16日の記録
吉右衛門は吉良邸には来なかった
 12月16日の記録では、吉田忠左衛門さんの組の足軽で、年齢は知らないが、寺坂吉右衛門という男は、吉良邸には来なかったというようになっています。
 ここでは、事実を歪曲して、寺坂吉右衛門さんが討入には参加しなかったというように変化しています。 
史料V
 「吉田忠左衛門組ノ足軽年無相知 寺坂吉右衛門本所屋敷見へ不申候」(『本所敵討』)
12月16日の記録
吉右衛門は不届き者です
二度とその名を言わないで下さい
 細川綱利家に移されていた吉田忠左衛門さんは、同じ12月16日、寺坂吉右衛門さんについて、次のような奇妙な話を細川家の堀内伝右衛門さんにしています。
 「吉田忠左衛門さんは、私ども世話役の方に寄ってきて、申された話は次のようなものでした。吉右衛門の話が出てくれば、この者は不届者です。重ねて吉右衛門の名を言わないでほしいと言われました。私(堀内)は、”吉右衛門さんも、その夜、皆と一緒に吉良邸に来て、その後欠落したらしい”とかねがね皆が言っています。しかしながら、”無事に仇を打ち破ったことを知らせる使いなどを命じられた”などとも色々言っています。吉田忠左衛門さんが”吉右衛門さんを不届者と言い、二度とこの名を聞きたくないと言っている”事を不審に思います。本当に欠落したのかも知れない」
史料W
 「吉田忠左衛門我等側ニ寄被申被咄候ハ…吉右衛門事申出候得は此ものハ不届者にて候、重而名を被仰被下間敷と被申候、吉衛門事も其夜一列一同ニ参候て欠落いたし候よし兼何も被申候、然共無恙仇を打被申たる儀を知らセの使なと被申付候なとゝいろ申候へとも右之通ニ被申候事不審ニ存候、実の欠落かとも存候事」(『堀内伝右衛門筆記』)
12月24日の記録
吉右衛門は吉良邸には来なかった
身分が軽い者は仕方がない
 12月24日になると、大石内蔵助さん、原惣右衛門さん、小野寺十内さん、この3人が連名で京都の寺井玄渓さん宛てに手紙を書いています。
 それには、「寺坂吉右衛門については、14日の暁(未明)迄は居ましたが、吉良邸には来ませんでした。身分の軽い者ですから、仕方がないと思います」となっています。
 ここでも、寺坂吉右衛門さんは、足軽身分だから、討ち入りに参加しなかったのも仕方がないという態度です。
史料X
 「寺坂吉右衛門儀十四日暁迄在之処、彼屋敷へハ不相来候、かろきものゝ儀不及是非候、以上」(『堀内伝右衛門筆記』)
堀内伝右衛門の記録
原惣右衛門は、家来口上から吉右衛門の名を削除
吉良邸には来なかった
 同じく、細川綱利家に移された原惣右衛門さんは、堀内伝右衛門さんから、「浅野内匠家来口上」の写しをもらいたい言われました。そこで、原さんは、赤穂浪士46人の名を書いた「家来口上」を堀内さんに渡しました。その写しのあとがきに、次の様に付記しています。
 付記には、「46人以外に、原文の家来口上には、寺坂吉右衛門という吉田忠左衛門組の足軽1人を載せています。吉右衛門は15日の未明に吉良邸に押し込む直前までおりましたが、討ち入り時刻には逐電して、見えませんでした」と書いています。
 ここでは、討ち入り前に欠落から、討ち入り前に逐電という表現に変化しています。欠落はいつの間にか居なくなったという意味ですが、逐電は夜逃げしたなど意図的な表現です。
史料Y
 「此外ニ本書ニハ寺坂吉右衛門と申吉田忠左衛門組足軽壱人載之候、此者十五日之暁彼屋敷へ押込候前迄在之処、其時刻致逐電不相見へ候」(原惣右衛門自筆「浅野内匠家来口上写し」あとがき)
2月3日の記録
幕府には、寺坂吉右衛門が欠落したと証言
幕府の問い合わせにはそう答えるように
 1703(元禄16)年2月3日、死を明日に控えた吉田忠左衛門さんから娘婿の伊藤十郎太夫治興さんに出した暇乞いです。
 「大目付の仙石伯耆守様屋敷にて、去年の12月15日に次の様に書いて言います。私(吉田)の組の者1人が欠落したと申し上げております。若し問い合わせがあれば、その通りとご挨拶するように…」
史料Z
 「伯耆守(仙石久尚)様ニて旧臘(去年12月)十五日ニ右書付候内私組之者壱人欠落いたし申候と申上候、其通と御挨拶ニ候」(『伊藤十郎太夫治行間書覚』)
2月3日の記録
成敗したいのは、吉右衛門ではなく
矢野為助だった
 2月3日、同じく翌日に死を迎えた原惣右衛門さんから弟の和田喜六さんへの暇乞状です。
 「昨年の12月14日に吉良邸に立てた口上の写しを仙石伯耆守様に差し出しています。その内に寺坂吉右衛門のことも言っている通りです。15日未明の討ち入る直前まではおりましたが、どういう訳で心おくれしたのか、吉良邸に来ず逐電してしまった。今少しのことだったのに、残念無念のことです。矢野為助めは、(今頃)どのように申して居ますことやら、(あやつを)成敗したくございます
 八木哲浩氏は、「成敗仕度候」を逃亡した足軽の矢野為助にかかると同時に、「原が寺坂の行動を逐電とみて怒っていたことを物語るものにはかならない」と断じています。
 その根拠として、原惣右衛門が細川家の世話役である堀内伝右衛門に『浅野内匠家来口上』」の写しを渡したが、「”最後まで行動をともにしなかったのは不届きだ。”こう考えて寺坂を討入り仲間とみなすことを峻拒し、除名だ!との怒りの表現として」、寺坂吉右衛門の名を除外して、46人の名を記入したことを挙げています。
 しかし、飯尾精氏は、次の様に反論しています。 
 しかしこの文は、どう読んでも「寺坂は気後れしたのか、討入りせずに逐電した。今少しのところで残念千万である」と、ここで一度文章は終り、続いて矢野為助めは(為助は原の組に属する足軽で、十二月の初めに逐電した)そのことをどう弁解するであろうか、このような自分の組下の足軽矢野為助めは成放してやりたい」と読むのが普通である。
 そこで、私は、正確を期すために、元同僚で、古典に造詣の深い国語の先生に訳して頂きました。上記の「矢野為助めは、(今頃)どのように申して居ますことやら、(あやつを)成敗したくございます」部分です。
 その先生は、その根拠として、”「為助め」の「め」はその相手にすごく怒っていることを示しています。これは相手を蔑む時によく使用します。ですから、成敗したい対象は「為助」と考えるのが普通でしょうね”ということでした。
 つまり、国語の立場からは、飯尾氏の説を支持したことになります。
史料[
 「一旧冬十四日ノ状ニ指出し候口上書の下書も遣候、其内に寺坂吉右衛門事申通候、十五日暁ニうち入候前までハ居申候処、何と候て心おくれ申候か、かのやしきニ不参候て逐電申候、今少之事、残念千万の事候、矢野為助め、いかやうニ申候て居申候や、成敗仕度候」
11月16日の記録
脱盟した者に対する言葉
「死を惜しむ大臆病大罪のやつばら」と激烈
吉右衛門には「」「欠落」「逐電」とカバイだて
 いよいよ、私の見解を述べる時がやってきました。
(1)私は、吉田忠左衛門や原惣右衛門らが、寺坂吉右衛門の逃亡を「欠落」とか「逐電」というように表現していることに注目しています。
 1702(元禄15)年11月16日、小野寺十内が京都の寺井玄渓に手紙を送っています。その内容は次のとおりです。
 「大野九郎兵衛(国家老)父子・植村与五左衛門(用人)并安井彦右衛門(江戸家老)・進藤源四郎(大石内蔵助の伯父)・伊藤五右衛門(大野九郎兵衛弟)らについては別項目を立てて記したい。奥野将監(組頭)・小山源五右衛門(小姓頭)・近藤源八(組頭)・粕谷勘左衛門・河村(?)らは赤穂城を去る時は、忠臣を誓っていたが、討ち入りが決定すると、約束を破って忠臣を忘れて退去しました。結局は、死を惜しむ大臆病で大罪の奴らである。特別に嘲弄したい。これだけ言ってもいい足りない位である。…。」
 つまり、途中で、脱盟した同志を、温厚な小野寺十内でさえ、このように、「死を惜しむ大臆病大罪のやつばら…いふにたらず候」と猛烈に罵倒しています。それに比して、寺坂吉右衛門に対しては、「かろきものゝ儀不及是非候」とか「不届者にて候、重而名を被仰被下間敷」程度である。
史料\
 「大谷(野カ)氏父子・植村并安井・進藤・伊藤武・外村等一段之段を立て記度候、奥野并小川(山)・近藤・岡山(本)・粕谷・河村是等は…落去之節より右(忠)心あり顔に(功を)衒ひ危急の期に至て約を変じ忠を忘れ退去、畢竟死ををしむ大臆病大罪のやつばら、各別之嘲弄有度事にて候、此末班(ママ)にの奴原はいふにたらず候、多川御家第一之武功之筈之もの養子ながら卑怯之働絶言語候」
義士仲間は、徹底的に吉右衛門をカバイだて
その後の吉右衛門はホレイショーの役を十分に果たす
彼は立派に赤穂義士である
(2)次に、八木氏は、原惣右衛門は、寺坂吉右衛門に対して「成敗仕度候」という過激な言葉使っているのは、47人の仲間には入れたくないと思っているからだとして、義士46人説を主張されたのでした。
 私も、討ち入り前に逃亡した原惣右衛門の組の属する矢野為助と同様に、寺坂吉右衛門を位置づける解釈に賛同しています。しかし、それは、憎いからではなく、吉右衛門の吉良邸討ち入りを否定する立場からだったと理解しています。
 「口上書」の写しに名が書かれなかった寺坂吉右衛門は義士ではないという八木氏の説も、素直に読めば納得できます。しかし、私は、原惣右衛門の寺坂吉右衛門に対する助命嘆願と理解しています。

(3)八木氏の指摘されるように、第一次史料からは、寺坂吉右衛門の密命説を裏付ける物は発見されていません。しかしながら、私は、赤穂義士47人説の立場です。
 最初は、吉良邸に討ち入る時は居たと証言していた仲間が、途中から、吉良邸に来なかったと証言を変化させています。2月4日の切腹直前まで、寺坂吉右衛門を徹底してカバイだてしています。そして、その理由に「身分」を主張しています。
 吉良邸に討ち入った仲間は、どのような理由があれ、徒党の罪から逃れられません。どこまで行っても探索されるでしょう。しかし、討ち入り前に、離脱すれば、その罪は減ぜられるか、免れるかも知れません。現実に、吉良邸に討ち入りをしなかった同志は、すべて不問にされています。

(4)寺坂吉右衛門の心情を考えて見ましょう。討ち入りはしたが、切腹が怖くて、逐電した。しかし、徒党の罪で、幕府の追っ手は、自分を捕らえるために、全国に派遣されているであろう。仲間の処分もまだ決まっていない。
 逐電した自分を、仕えていた吉田忠左衛門さんは「成敗仕度候」と思っているであろう。親戚にも、知人にも、「吉右衛門を見たら、連絡せよ」と知らせているであろう。
 そういう心理の寺坂吉右衛門は、果たして、姫路にいる忠左衛門の娘婿の所に顔をだすでしょうか。
 仲間や自分への処分が決まっていない1月27日(1703年)の手紙では、吉右衛門は、姫路の娘婿の所に来ていることがわかます。
 八木氏は、吉田忠左衛門の娘婿宛ての手紙をみて、「かばいの情」を感じています。私は、そのかばいの情が全てを物語っていると考えています。

(5)私は、八木氏の単純な逃亡説でもなく、飯尾氏の従来の黙契説の立場でもなく、含みのある逃亡説です。
 つまり、義士46人は、寺坂吉右衛門を残すことで、歴史の証人になることを期待したという立場です。『ハムレット』におけるホレイショーの役割です。
 私たちが赤穂事件をこれほど再現できるのは、堀部安兵衛の『堀部武庸筆記』と寺坂吉右衛門の『寺坂信行自記』のお陰です。寺坂吉右衛門は、立派に赤穂義士です。
 戦前、治安維持法で逮捕され、拷問などを受け、転向した政治家や学者や芸術家がいます。釈放されると、多くの人は、良心の呵責により、沈黙を保っています。しかし、中には、転向を合理化するために、「だまされた」とか「間違っていた」と弁解して、過去の主張と反対のことを大々的に宣伝します。その代表が『大東亜戦争肯定論』を書いたある作家です。
 しかし、吉右衛門は、弁明もせず、客観的に克明に記録しています。そういう意味でも、義士です。

 今回で、47士説か46士説かの私の考えを終わります。しかし、今後、色々な人が、様々な史料を使って、この議論をさらに深めることを期待します。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『赤穂義士論』(赤穂市)

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