home back next

平成19(2007)年3月18日臨時増刊(第252号)

忠臣蔵新聞

赤穂城と忠臣蔵(2)

赤穂春咲ウオーク
旭堂南海さんの前座に私も出演
主催:ラジオ関西・赤穂市など

青空講演する私
「赤穂春咲ウオーク」のコース
(画像をクリック→詳細画像)
江戸時代の赤穂城
(画像をクリック→詳細画像)
2007年3月18日(赤穂発-臨時増刊)
「赤穂春咲ウオーク」の出演者紹介
 2007年3月18日(日)、忠臣蔵のふるさと赤穂で、「赤穂春咲ウオーク」(ラジオ関西・赤穂市・赤穂観光協会)が行われました(参加700人)。その後、海浜公園でのイベントとして、田中さなえさん・池田奈月さんの軽妙なトーク、播州赤穂義士太鼓、私の「赤穂と忠臣蔵」講演、そして、旭堂南海さんの赤穂歴史講談がありました。
(2)赤穂城の成立と構造
 今回はその2で、赤穂城の成立と構造です。
 1645(正保2)年、浅野長直が常陸(茨城県)笠間から赤穂にやって来ました。その点では「よそ者」です。
 初代の浅野長直は、赤穂城を造営しました。
 赤穂春咲ウオークの地図をご覧下さい。
 皆さんは、地図の総合体育館の北側、赤穂城の南の水手門から出て来ました。
 次に江戸時代の赤穂城をご覧下さい。
 この地図を見ると、水手門の南は瀬戸内海だったことが分ります。
 赤穂城の東側は、現在は疎水になっていますが、江戸時代の地図を見ると、千種川の本流が流れていることが分ります。
 1892(明治25)年に、赤穂を襲った大洪水により流路が変更されました。赤穂春咲ウオークの地図を見ると、赤穂城よりずーっと東に千種川が流れているのが分ります。今の千種川は、尾崎川といい、曲がりくねった水路を開削して、本流としました。
 次に皆さんは、息継ぎ井戸から花岳寺に進みました。
 赤穂城の北側は、花岳寺を中心に、寺町を形成しています。随鴎寺・塩林寺(浅野家の祈願所)は水軍の屯所、常清寺は東惣門のおさえて、普門寺・妙慶寺・報恩寺は姫路街道の守備、高光寺(浅野長直の妻の菩提所)・大蓮寺(浅野長友の妻の菩提所)・長安寺・福泉寺は西・北に対する構え、花岳寺(浅野家の菩提所)は赤穂城の出城的性格 を持って
いました。
 江戸時代の地図のピンク色の部分です。この地図ではよく分りませんが、花岳寺を出ると、直ぐ左が現在の花岳寺通りで、姫路に通じていました。花岳寺を出て、南に5メートルほど進んで、右を見ると、古風な家並みを並んでいます。隠れた名所で、岡山に通ずる備前街道が延びています。
 外敵は、一旦花岳寺の前で、隊列を整える必要があります。隊列を整える間に、花岳寺の僧兵が出動するという作戦だったのかもしれません。
 赤穂城の西側は、赤穂の家臣が居住する武家町を形成しています。江戸時代の地図の茶色の部分です。
 現在でも、岡野金右衛門・間喜兵衛・中村勘助・早水藤左衛門・菅谷半之丞・近松勘六・大高源五・貝賀弥左衛門・勝田新左衛門・原惣右衛門・岡島八十右衛門・不破数右衛門・矢頭右衛門七・矢頭右衛門七・木村岡右衛門・千馬三郎兵衛の屋敷跡の石碑が確認されます。
長政 幸長 長晟 (広島浅野本家) 石束リク
━大石内蔵助良欽━ 大石良昭 ‖━ 主税良金
‖━ 内蔵助良雄
大石頼母助良重 池田クマ
長    晟
長重 長直
長友 内匠頭長矩
大学長広
長賢
長恒
赤穂浅野家3代

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

index home back next